« 2007年1月15日 | トップページ | 2007年1月19日 »

2007/01/17

説教7:「純然たる無である被造物について(ルカ1:57)」より

 人は、生き甲斐を求める。それは、あるときは平穏な生活であったり、またあるときは野望であったりする。いずれにしても、私たちはこの世界の時間の中でそれを探し求めているのである。
 しかし神は人の心に永遠を想う心を与えられた。だから人の心は、この世界のことだけでは、決して満足し得ない。人が絶えず新しい夢や野望を抱くのは、彼の心が永遠へと向けられていることの一つの表現なのである。そして彼が歳を重ね、様々なことを経験するに連れて、彼の内にはこの世界のものへの失望と永遠の世界への憧れが成長していくのである。そればかりでなく、彼がこの有限の世界を離れるときも近づいて来ているのである。
 そこで、以上のことからの自然な洞察として、彼が探し求めてているものは、実はこの見える世界には無いと言えるのではないだろうか。むしろ実は、彼が探し求めているものを見いだすためには、返ってこの世界のものを求めることをすべてを断念する必要があるのである。彼が真の神を探し求め、正しく生きようと欲している場合には特にそうである。そのようにこの世界を真剣に生きようとする人は、やがてこの世界のすべてのものが無に等しいことを知るのである。しかしそのように、この世界のものをすべて捨て去り、内側に何もなくなった人が、いつまでもその状態のままなら、それもまた希望のないことであろう。
 そのような人、この世界の事物をすべて捨て去り、心を無にした人の精神の最内奥に、神は自らのひとり子を生み給うのである。このことがもし起こらないならば、人には何の望みもない。しかし、神はそのために人となられたのである。次に、私の内に生まれ給うたひとり子に、神はその有と本質において持っているものすべてを子に与える。この授けの内で聖霊が流れでるのであり、そのとき、空になった私の内に恩寵が注ぎ込まれ、すべてが完成へ向かって動き始めるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

説教6:「神の根底にまで究めゆく力について(集会の書44:16,17)」より

 神は全能であり、時間を超えてすべてを認識する。それに対して、私は有限の知識しかなく、時間に縛られた存在である。しかしこの有限な存在である私が神の前に義とされ、神に喜ばれる道が存在するのである。
 その秘密は、三位一体の教理の中にある。キリストは、神であることを固守すべきこととは思われず、返って己を空しくして僕の形をとり、人の姿になられたのである。彼が人となったとき、彼は有限な性質をとられたのであった。しかし彼は神に義とされ、神に喜ばれたのである。
 人の限界は、その有限性にある。人の認識は神と異なり、一度に一つのものしか認識できない。キリストが人となられたとき、彼の身体的な認識は有限の世界に限定されるようになった。彼は一度に一人の人としか話すことができなくなった。しかし彼の精神世界の認識は、神がすべてのものを認識するその認識と同じものだったのである。同様に人も一度に一つのものしか認識できない。しかしそれは、神が彼を認識する認識と同じ認識、同じ愛で有り得るのである。
 人がその有限なあり方において、神に義とされる仕方は、彼の有限性において神に従い通すということによる。私たちは、キリストの生涯にこれを学ぶことができる。キリストは実に、死に至るまで神に従順であられたのである。つまり私たちは、決して外的な事柄に惑わされてはならず、ただ神のみに従わなければならないのである。そのためには、造られた一切の事物から自由となり、真理の真なる鍵をかけて、自分自身の内にしっかりと閉じこもる必要がある。そのとき、私は時間の呪縛から解かれ、今という時の秘密を理解する。それは、永遠への入り口である。というのは、この地上で永遠が私のものになるとすれば、それはこの今の内においてしかないからだ。私の永遠はこの今の内に包含されているのだ。そしてそれは、十分可能なことなのだ。というのは、もし私が、神から目を離さず、神の前に永遠の決断をするなら、それが実際に現実のものになるのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年1月15日 | トップページ | 2007年1月19日 »