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2007/01/14

戦いの人生(サムエル記下11章より)

 ダビデは、イスラエルの歴史の中で、もっとも神に愛された王であろう。彼ほどに神を愛し、神に忠実であった王はいなかったと思う。しかしその彼が、神に対して大きな罪を犯してしまったことが聖書に書かれている。そしてその罪は、聖書の中に永遠に書き記されてしまうことになる。新約聖書においても、最初の福音書であるマタイの一章に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・」と記されてしまっている。ダビデのこのような汚名を聖書は、なぜにこうまで執拗に書き記し、それを私たちが今読んでいるのだろうか。
 聖書には、「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン陣を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた」と記されている。その後、彼の目は、「屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた」のである。ダビデが罪に落ちて行ったのは、このときからだろうか。それとも彼がバテシバを召し入れ、床を共にしたときだろうか。主イエスは、「情欲を持って女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言っている。ダビデの心に罪の心が生じたのは、いつだったのだろうか。
 私はこのように考える。つまりダビデの罪は、11章の1節から始まっていると。ダビデが戦いに行かずに、王宮に留まっていたとき、すでにダビデは罪への道を歩み始めていたのだ。彼が王宮にただ一人残ると同時に、彼は罪に向かって歩き始めていた。だから、彼が罪を犯すのは時間の問題だったのだ。
 ダビデは、王であると同時に戦士だった。だから彼は、戦いを離れて、一人王宮に留まっているべきではなかったのだ。同じように、主イエスを信じて、生涯を捧げたクリスチャンもまた戦士である。だから、彼が戦いから離れて、安穏とした生活を送るとき、彼を待っているのは罪を犯すことなのだ。イエス・キリストが天から来られて、十字架に掛けられて私たちの罪を購い、死から復活されたことにより、旧約聖書の歴史が空しくされたのではない。それは、今も私たちに語りかけている。「あなたがたは、戦士である。あなたがたは、勇士である。あなたがたは、ダビデである。」と。
 アダムが罪を犯した原因は、何だったのか。彼が神の「地を従わせよ。」という神の命令を受けながら、エデンの園で安穏とした生活を送っていたからではなかったのか。もしアダムが敵であるサタンの存在を知っていたら、彼の戦いの生活は始まり、彼は勇士となっていただろう。そのように、私たちクリスチャンの生活は、戦士の生活であるべきなのだ。そしてその軍隊の総指揮官は、イエス・キリストである。このお方の前に跪き、忠誠を近い、このお方と共に戦士として世に出て行くとき、私たちは始めて罪から開放された歩みをすることができるのだ。

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