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2007/01/13

説教3:「なぜという問のない生き方について(第一ヨハネ4:9)」より

 「人はなぜ生きるのか」。
 この問いは、人生を真剣に生きている人が一度は発する疑問だろう。しかし、人類が生まれて以来、この問いに答えられた人はいない。つまりこの問いに答えはない。そして、この問いを問うている間は、その人に答えが与えられることはない。それでは答えはどこにあるのか。この問いだけは、捜し求めても無駄である。あなたの外にはそれは無いからである。それはあなたの内にあるのだ。いつからか。それは、あなたが生まれたのと同時に、すでにそこにあったのだ。だれが与えたのか。もちろんあなたを創造された神ご自身である。それでは、なぜあなたはいま「なぜ生きるのか」と問うているのか。まだ答えを受け取っていないからだ。どうすれば受け取れるのか。それには、あなたが自分の「造られたもの」としてのあり方、すなわち、「こうであるべきだ。こうでなければならない。」というような固定観念から離れて、それらすべての上に神を位置づけること、つまりすべてにおいて神を第一にすることである。
 そのとき神は、それまであなたが思い描いていたような、近づき難い天上の御座からあなたのもとに降り来たり、あなたの生活の中に共に住まわれる。主イエスがこの地上に来られたのは、そのためであったのだから。そのように、あなたが自分から離れ、神もまた御座から離れるとき、聖書に書かれているように両者は一体となるということが起こる。これは難しいことではなく、ごく自然に起こることなのだ。むしろ難しいのは、あなたが自分から離れることの方だ。しかしそれが起こるとき、それと同時に、神は御座から降り来たる。いや、神はすでに降り来たり給うたのであり、あなたの心の扉の外で待っておられるのである。あなたが扉を開けるそのとき、あなたの内にキリストがもう一度生まれる。ピリピ書に「自分の内にキリストを見い出す」とあるように。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意志が神の内、すなわちあなたの内にわき出でる。この意志が「なぜ生きるのか」ということへの答えなのだ。
 この意思があなたに与えられるとき、あなたにはもはや迷いはなくなる。あなたは、もはや「なぜ生きるのか」と問うことはない。あなたは時間から自由になり、知識から自由になり、戦略から自由になる。そしてあなたは、キリストと共に勝利者となる。キリストの「勝利」、「栄光」、「誉れ」があなたのものとなるのだ。そして、あなたはキリストのもの、キリストは神のもとに帰り、すべてが一つとなるのである。なぜそうならなければならないのか。それは、あなたが「なぜ生きるのか」と問うことがなくなり、すべてが「然り(アーメン)」となるためである。

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