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2007/01/11

4度目のエックハルト研究について

 このブログは、マイスター・エックハルトの説教に関する勉強からスタートした。そして続いて、聖書の中から福音書等を読み、旧新約聖書全体の文脈からそれを解釈する試みを行い、また一方でブルトマンやキルケゴールの書も講読しながら、教理や宣教に関する自己の認識を深めて来たつもりである。そのような勉強の中から、また「聖書随想」や「人生の問い」というブログカテゴリーにおいて、一信徒として未熟ながらも主張や問題提起等をしてきたと思っている。
 そして今また、4度目のエックハルト研究を実施することになった。その理由は、これまでの勉強における種々の考察の流れが、一方で実存主義的な信仰理解の追求に向かいながらも、他方でその限界を痛切に感じてきたことがあげられる。というのは、実存主義的な信仰理解の傾向として、どうしても主観的になり、世の様々な流行から影響を受け、その結果、時として聖書が警告しているところの、異教的な思想も含めた教義の迷宮に迷い込むことがあるようなのである。しかしそのような危険性から逃れられるなら、私は実存主義的なアプローチは信仰の刷新の為に、時代を追って絶えず追求し続けるべきものと考える。ブルトマンは、非神話化という手法を用いてこのことを安全かつ徹底的に追求したのだと思うが、方法論において聖書の言葉を切り詰めてしまったので、福音派、正当派からは危険視されることになってしまった。彼は、信仰を終末論に集中したのであり、その意味ではボンヘッファーのいうように「やり方が足りなかった」のかもしれない。そこで彼の後継者や研究者が彼の神学を批判する立場から、多様でときには奇妙な神学を次々と紡ぎ出して来ることになったらしい。
 それは何と言っても、この終末の時代にあって、福音信仰の内容があまりにも生温く、そして魅力がないことが原因なのだろう。今日、いったいどのくらいの人が、聖書を自分の胸に抱きしめて「これこそ歓びの書、いのちの書」と叫び得るだろうか。否、返って旧約においては、六日間の天地創造物語に、また新約においては、マタイの福音書冒頭の長い系図において、当惑と退屈の内に書を閉じることが一般と信じられているのではないか。確かに一部の人は聖書を恋い慕っているが、その境地に到達するためには、実際は長い道のりが必要であり、その途上にある信者の証しさえもが返って福音信仰の困難さを吐露する結果になっていることも教会成長を阻んでいる一つの要因なのだと思う。
 そこで私はどのように考えるかと言えば、自分が属する福音派は、実存主義、カリスマ信仰、神秘主義の3方向からの刷新を求めているように思える。実存主義からは、聖書を自分のこととして受け取る真剣な姿勢を、カリスマ信仰からは、神の全能性に基づく確信と実践を、そして神秘主義からは、見えないものへの霊的な洞察力をそれぞれ受け取る必要がある。そのようにして、キリストにあって神の前に人がどのような存在であるのか、また人が神から何を相続しようとしているのかということが明確になってくれば、信仰の方向性も明確になり、福音宣教も力強いものになるに違いないと思うのだ。

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