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2006/12/14

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、附論 けれどもそれでは罪は或る意味では非常に稀なことにならないであろうか?

 キルケゴールは、この書の中で独自の「罪の定義」を提起し、その信憑性を実証しようとしている。彼の提起する「罪の定義」は次のようなものである。すなわち罪とは「人が神の啓示によって罪の何たるかを知った後に、神の前において絶望して彼自身であろうと欲しないことないしは、絶望して彼自身であろうと欲すること」である。
 この定義によれば、人が罪を犯すことができる為には、まず彼に神から罪とは何かが示されなければならない。そして再びそのためには、彼が神を知ること、ないしは神と出会うことが必要なのである。しかし、そのようなことは容易には起こらないので、この定義によれば罪は非常に稀なものということになるのであり、これはキルケゴールによる罪の定義から導き出されてきた一見奇妙な結論と見えるのである。
 しかし人が自分の絶望に気付いていないからと言って彼が絶望していないということではない。そして罪が絶望の度が強まったものというキルケゴールの定義によれば、その気付かれていない絶望が無限の時を経て罪にまで強まることは必然的なことであり、そのことから、実は殆どの人が罪人であることが帰結するのである。
 しかしキルケゴールが嘆いているのは、実はそのことではない。そのように、罪が稀である現実、つまり多くの人が自分の罪を意識するに至らず、ただ日々の快楽にのみ興じていて、自分の人生を創造者との関係で問うことをしない現実のことなのである。
 父なる神さま。聖書に啓示された、人の罪を正しく認識できますように。

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エゼキエル書 第25章

 神は、イスラエルの罪を裁かれ、敵の手によってエルサレムの聖所を汚し、イスラエルの地を荒らさせ、ユダの家を捕囚とされた。
 しかし、それを見てイスラエルを嘲ったアンモン人に神は復讐されるのである。神は全地の裁き主であり、神の民イスラエルを嘲ることは赦されないことなのだ。神はまた、モアブ、セイル、エドムにも同じようにされる。彼らもまたイスラエルを尊ばなかったからである。
 神は言われる。「それは彼らが、私が主であることを知るようになるためである」と。裁きは、人が神を知るようになるための一つの契機である。しかしもしそこで止まってしまうなら、裁かれた人は滅びるしかない。しかしもし、彼らが神の裁きに悔い改め、その前に身を低くし、翻って新しい人生を歩もうと欲するなら、その先で彼らは、恵みにより、神が主であることを知るようになるのだ。
 父なる神さま。あなたは、悔い改める者を決して軽んじられません。

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エゼキエル書 第24章

 神はエゼキエルに言われた。「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴をはきなさい。口髭を覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」朝、エゼキエルは、民に向かって語っていた。夕になって彼の妻は死んだ。神は彼に言われた。「その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる」と。
 「逃れて来た者」とは、二回目のバビロン捕囚により「目の喜び、心の望みであるもの、すなわち息子、娘たち」を敵に殺された者たちである。エゼキエルは彼らに対してしるしとなった。彼は語るだろう。自分の目の喜び、心の望みであった妻が神によって取りさられたこと、それが彼にとってどのような悲しみであるかということを。それは、まさに「逃れて来た者たち」の悲しみでもある。神は彼等が体験した悲惨の意味を伝えるためにエゼキエルの妻を取りさり、エゼキエルを彼等と同じ悲惨に陥れられた。
 これはもう血みどろの戦いであり、もはや戻ることはできない。神がそれを選ばれたのだ。いったいこの悲しい喪失はいつまで続くのか。イスラエルは完全に滅んでしまうのか。エゼキエルは神に向かって叫ぶ。「ああ神よ、イスラエルの上に御怒りを注いで、残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」と。しかし神は言われる、「彼らはわたしが主であることを知るようになる」と。
 神は、愛するエゼキエルの妻を取り去られた。それは決して空しい喪失ではなく、まさに神の愛する「彼らが神が主であることを知るようになる」ための遙かな未来へ望みをつなぎ止めるための唯一の方法だったのだろう。
 父なる神さま。このときのあなたの御心の悲しみは、どんなに深かったことでしょう。

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