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2006/12/09

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第三章 罪は消極性ではなしに積極性であるということ

 罪は消極性ではなく積極性であるということのために正当派はいつも戦ってきたとキルケゴールは言う。しかしあまりにもこの真理に固執しようとしたために、福音主義からはなにか分からず屋のように見なされてきたのではなかったのだろうか。
 いっぽう福音主義は確かに聖書の言葉を重んじたかもしれないが、その反面、どう解釈するかという点では、各個教会を野放しにしてきた面があるのではないだろうか。その結果、ひとつの聖書の言葉から、パリサイ派のように多くの解釈が発生してくることになってしまい、その結果多くの教派というか、宣教ポリシーが生まれてきた。そして教派間の競争等があったかどうかは知らないが、現在に至っては、かなりの面で人に媚びへつらうような風潮ができてしまっているように感じられる。言葉を変えて言えば、聞く側のことを考えすぎているように思えるのだ。
 そして結局のところ、キルケゴールが言っているように、人がそんなにも自分の罪に束縛されているのは、福音の内容に関する知識が足りないためであるように勘違いし、教会が聖書講座とカウンセリングを提供するところになってしまったかのようだ。
 そのような教会を主イエスは、きっと口から吐き出されるだろう。現代の多くのキリスト教会の礼拝や活動が、まるでお通夜のようである原因をよく考えてみる必要があるのではないか。
 しかし、福音はすなわち聖書の宣教であるところにきっと救いがあるのだろう。そのように底なし沼に竿を刺すというか、のれんに腕押しのような産みの苦しみを重ねているうちに、時代が変化し、やがて主イエスが預言された終わりの時代、苦難の時代がやってくる。そのとき、キリスト教会の語っている福音の質が根本的に変化する。ただしそれは、外側の世界との相対的な関係においてである。そしてわれわれの語っている福音の中の真理が宝石のごとくに輝き出る。福音の意味は、時代とともに変化するのである。このような魂の収穫のとき、後の雨のときに向かって、我々は産みの苦しみをし、神に求め祈っていかなければならないだろう。キルケゴールが本書を通じて大いなる問題提起をしてくれているのだから。
 父なる神さま。人を救うのはただあなたの主権です。

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エゼキエル書 第23章

 神はエゼキエルに言われた。「人の子よ、あなたはオホラとオホリバを裁くのか。彼女らにその忌まわしいことを告げ知らせよ。彼女たちは姦淫を行い、その手には血がある」と。
 姦淫は、すべての悪しきことの始まりである。それは誘惑に負けるという意味では一つの消極性のようにも見える。しかし「その手には血がある」と神は言われる。イスラエルは自らの意志で、率先して人を誘惑し、姦淫を行ったと神はイスラエルを責めておられるのだ。
 そして姦淫が罪の始めであることは、時が経過するにつれてますます明らかになってくる。一つの罪がさらに大きな罪を誘発し、やがてそれが誰の手にも負えなくなってくる。姦淫が嫉妬を産み、それが敵意と対立に発展し、やがて血を流し合うまでに至る。なぜそのようになってしまったのか。やり方が下手だったのか。あるいはもっとうまく立ち振る舞うことができたのではなかったのか。そのような考えも起こってくる。しかし結局そのような結末は必然的なものなのだ。そのような人には、自分が個々の罪をそのつど犯しているように見える。しかし現実は、それらの罪は連続して起こるべくして起こっている。そればかりではない。彼が、あるいは彼女が犯す罪だけではない。その結果として彼らが被る攻撃や被害さえも彼らの罪の帰結だと神はエゼキエルを通して語っておられるのである。
 父なる神さま。この世界の本質は、私とあなたの関係なのだということをいつも覚えていることができますように。

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