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2006/12/07

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第二章 罪のソクラテス的定義

 「罪のソクラテス的定義」とは、罪は無知の結果であり、罪を犯す者は、正しいことについての知識が不足しているということである。これを逆の言い方にすると、人が何が正しいかを理解したなら、彼は必ず正しいことをするはずだということである。これがキルケゴールが言う「罪のソクラテス的定義」である。
 しかしある人は言うであろう。すなわち、「実際はそのように簡単ではない。正しいことを知っていながら、あえて悪いことをする人間がいるのだから」と。しかしソクラテスは言う。もしそのようなことがあるなら、その人は、正しいことを理解したと思っていただけで、実際にはそれを理解していなかったのだと。この場合その人の。「自分は理解したのだという認識」と「彼は確かに理解しているという事実」との間にギャップが存在するということである。それでは、その人が本当に正しいことは何かを理解した暁には、彼は実際に正しいことを行うであろうか。「然り」と答えるのがソクラテスであり、その場合には罪という概念は存在しないことになる。というのは、彼が良いことを行わないのは彼の意志が悪いからではないからである。
 しかしもし彼が正しいことは何かを理解した上でも依然として良くないことを行うということがあるなら、それを行っているのはたとえば良識等ではなく、まさに彼の意志なのであり、そこに罪というものが想定されてくるとキルケゴールは言っているのだ。それは、人が良いことを認識してから彼がある行動をとるに至るまでの過程を追うことであり、「人」というような一般的な対象を取り扱うことではなく、或る名前を持つ特定の個人を想定したものとなる。ここに初めてキリスト教が始まるのである。キリスト者とは、罪がどのようなものかということを天から啓示され、それとの決別を決意した者なのであり、このような高い認識には、人の努力では到達できないのである。
 父なる神さま。私の意志があなたに従順になりますように。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第一章、附論 罪の定義が躓きの可能性を含んでいるということ。躓きに関する一般的考察

 福音宣教にとって、人々の躓きとなるものをいかに除去するかということは、一つの課題で有りうる。しかし、そのこと自体が目的化されることは、大いなる弊害を生むことになる。というのは、キリスト教における罪の定義自体が躓きの可能性を内包しているのだから、というのがキルケゴールが言っていることである。
 彼によると躓きを避けるために福音を弁護するようなことは、常に福音の誤った推奨なのであり、それは福音の価値を知らないもの、すなわちそれを一度も信じたことのない者の仕業にほかならない。そのように、福音を宣べ伝える者の中にも、神のためを思わず、自己の虚栄心による者がいるのである。
 それでは何故に、キリスト教の中に躓きが内包されているのか。それは言わば、愛の神がそれによって身を守るところの防塁である。ずる賢い子供の願いを何でも聞き入れ、無限に罪を赦すことにより、子供からなめられてしまった神は、躓きという防塁によって、ご自身の義と尊厳を護り通されるのである。
 しかし、神がそのようなことをなさる必要がどこにあるのか。まったくない。神は全能であり、全宇宙の創造者であるから、私たちから身を護ったり、ご自身を弁護したりなさる必要はない。それでは何故神はそのようになさるのか。それは、すべて私たちのためなのである。すなわち神が義となられるためにキリスト教の中に「躓きの可能性」が必要なのである。
 父なる神さま。あなたの義は、揺らぐことがありません。

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エゼキエル書 第22章

 神はエゼキエルに言われた。「祭司たちはわたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚した。彼らは聖と俗とを区別せず、浄と汚れの区別を教えず、わたしの安息日に目を覆った。こうして、わたしは彼らの間で汚されている」と。
 聖と俗とが区別されないような状態は、最悪の状態と言えよう。神が天地を創造したとき、まず光と闇とを分けられた。その秩序が完全に崩壊していた。そのような状態は、万物の存在意義の喪失につながるほどの混乱と言えよう。そのような世界を神は、どのように取り扱われるだろうか。おそらく、すべてを滅ぼし、無に帰することが妥当な取り扱いであろう。なぜなら、そのような世界は、神の天地創造の目的から見ると、もはや存続の意味を持っていないと言えるであろうから。そこで神が、たとえばハリケーンのような天災を送り、地の生物をすべて滅ぼし去ろうとされたとしても、それは仕方ないことのようにも思われる。
 ああしかし、たとえそのように神が空に雲を巻き起こされたとしても、そのときかの虹が雲の中に現れる。それは、神ご自身が創造され、ご自身に賭けて誓われた契約である。それゆえに神はもはや地を滅ぼすことがおできにならない。
 人の良いイスラエルの神は、そのようにしてどんどんとご自身を追い詰めてしまい、自分自身で身動きのとれない状態になってしまわれたのだろうか。そして今に至っても神は、そのような状態を改善しようと神に取りなす人を探し求められる。もしそのような人が存在するならば、この腐敗し切った世界を赦そうと心に決めておられるとは、何という哀れみの神であろうか。
 しかし、結果としてそのような人は現れなかった。神が強制的にそのようにされたのではない。ただ神はその結果を予知しておられたに違いない。このこと、そなわち時を越えているということにより、神はどのようにも、人から侮られることはないのである。
 父なる神さま。あなたの聖さと尊厳、哀れみは変わることがありません。

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エゼキエル書 第21章

 神はエルサレムに向かって剣を送られる。それはバビロンの軍隊の剣だ。それは研ぎ澄まされ、それを持つ者は殺戮のために訓練されている。もはやそれから逃れられる者はいない。そのことが起こるという知らせが届いたとイスラエルの民に知らせるように神はエゼキエルに命じた。
 しかし知らせは本当に届いていたのか。否、神はエゼキエルに脅しを語らせておられたのである。そこでエゼキエルは神に言った。「民は私を、諺を語る者」すなわち、裁きではなく諭すだけの者と呼んでいますと答えた。
 神はエゼキエルを通して民に告げておられた裁きの執行を大いなる哀れみによって遅らせておられた。しかし、イスラエルの民はそれを神の無力と受け取っていたのである。神はそれをご存知なかったのだろうか。否、否、もちろん神は知っておられた。民から侮られるのを承知した上で、あまくしておられたのである。
 神の無限の愛は、イエス・キリストにおいて現されたと人は言う。また、旧約聖書の神は怒りの神であり、新約聖書の神こそが赦しと恵みの神であると言われる。そうであろうか。否、神は、天地創造の昔から変わっておられない。神の哀れ、赦し、恵みは旧約聖書において燦然と輝いている。
 旧約聖書において、大いなる裁きと悲惨が記録されているのは、神が怒りの神であったからではなく、むしろ民の罪が極限に達していたからである。もはや赦しと恵みの神にも、たとえキリストがそこにおられようとも、もはやどうしようもなかったのである。それらの罪をそれ以上赦し続けることは、創造されたすべてのものの存在意義をも無に解消させることでしかなかったのである。
 そこで、イエス・キリストが来られた後の世界としての現代の状況はどうであろうか。地球規模の環境破壊、かつてなかったような数の堕胎、戦争や内戦による大量殺戮、日常的に繰り返される凶悪犯罪。これらを見るとき、恐ろしい神の怒りが積まれていることを認識せざるを得ない。神は、エゼキエルの時代のように、この時代においてもすでに忍耐のきわみに達しておられるように思われるのである。
 父なる神さま。私たちの罪をお赦しください。

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エゼキエル書 第20章

 イスラエルの長老たちが来て、主の御心を問うためにエゼキエルの前に座った。そのとき神はエゼキエルに言われた。「彼らが尋ねても私は答えない」と。
 パウロは諸教会へ宛てた手紙の中で言っている。「この世界のすべてのものが今に至るまで、産みの苦しみの中にある」と。
 イスラエルは、今自らの罪の中にあり、その報いを受けて異国人から攻められ、遠い異境の地へ連れ去られ、大いなる屈辱の中にある。しかしそれは、しばらくの産みの苦しみである。やがて主の元から救いが輝き出て彼らを覆い、彼らの罪が洗われ、石の心が取り去られ、肉の心が与えられるときがやってくる。そのとき遠い異邦の国に散らされていた人々は、約束の地に帰って来て聖なる山でまことの礼拝を神にささげる時がやってくる。
 しかしそれは、恵みの時であると共に裁きのときである。この特別な恵みのときに自分の罪を悔い改め、まことの神に立ち帰る者は、再び神との交わりを回復する。しかし、自分の罪の中に留まり続けようとする者にとっては、それがそのまま裁きとなり、その者のこころは頑なとなり、神から離れてしまう。
 人の心は、一つの奇跡であり、神との微妙な関係の中にある。悔い改めて神に立ち帰るのは彼自身であるが、そこに神の恵みと導きという必然性がなければ、それは実現し得ない。神のなさることはみな神の一人芝居のようにも見える。しかし、神は人に決断の責任を負わせされる。
 それらは、なぜ矛盾しているかのように見えるのか。それは、人と神の関係が正しくないことに起因するのだろう。そのような関係にあるとき、あたかも人は神から自由意志に介入され、不当に支配されているように見える。それでは、正しい関係とは何か。それは、人と神が心を共有し、一つのことを意志し、一つのことを行うという関係である。もしそのような正しい関係が回復されるなら、すべての矛盾は解消するだろう。そしてエゼキエル書のテーマは、まさにそのことなのである。
 父なる神さま。あなたと想いを共有するという奇跡を体験できますように。

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