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2006/11/25

罪の許しと解放

「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないようにしなさい。」
 人が罪から解放されるためには、二つのことが必要となる。一つは、自分が犯してきた罪をすべて赦されること、そしてもう一つは、もう罪を犯さないようにされることである。
 自分の中にまだ赦されていない罪があるうちは、人は正しく生きる力を持ち得ない。正しく生きられるのは、ただ正しい者だけだからである。そこで人が正しく生き始めることができる為には、まず彼の犯した罪がきれいさっぱりと赦される必要がある。
 しかし、たとえ人の罪がすべて赦されたとしても、彼の状態が以前のままならば、再び罪を犯す運命が彼を待っているだけである。そこで彼の罪の性質が根本から変えられて、もはや罪を犯す可能性からも解放される必要がある。そのようなことが果たして可能だろうか。
 しかしこれら二つのことは実は異なるものではなく、一つのことなのだ。すなわち、罪が赦されるのは、彼が二度と罪を犯さないことを前提にしているのであり、主イエスが言われたのはそのことなのである。つまり、私たちは、もう二度と罪を犯さないようにされるまでは、完全に罪の赦しを受けとってはいないのである。
 それでは、どのようにすれば罪の許しと共に、罪の性質からも解放されて、もはや罪を犯さないような存在へと変えられることができるだろか。それはただひとつ、人が主イエスご自身を知ることである。それも自分のすべてのすべて、つまり救い主として知るのである。
 人が罪から解放されるか否かは、ただ彼が主イエスをどのように知るかにかかっている。ある人は、主イエスの十字架を自分が充実した人生を楽しむためだと思っている。またある人は、それを自分が人生の困難を克服しつつ生きるための新たな力を得るためであったと思っている。しかし主イエスは、断じてそのようなことのために死なれたのではなかった。彼は、あなたがもはや自分のための人生を歩まず、あなたのすべての希望を打ち捨てて、あなたの人生のすべての時間を主イエスのために捧げるようになるために死なれたのである。
 父なる神さま。聖霊の助けを切に求めます。わたしがそのような人生を歩めますように。このことが私のただ一つの願いで有り続けますように。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第一章 自己意識の諸段階(「神の前に」という規定のもとにおける)。

 絶望の度は自己意識の度に従って強まる。自己がこの特定の個体的な自己として、自分が神の前に立っていることを意識している場合、そのとき初めてそれは無限なる自己である。そしてかかる自己が神の前に罪を犯すのである。
 人の生きる目的は、人が彼自身となることにあるとキルケゴールは言う。そう、神と父子の関係にある彼自身、つまり神から造られた姿としての彼自身となることである。そして、そのように成長するということは、彼の自己認識が高まり、自分がどのような者であるかを深く理解することを意味する。そこでそこには、彼が罪を犯したときの情状酌量の余地が段々となくなってくることになるのである。
 キルケゴールはさらに、あらゆる罪は実は神の前に起こっているのだと主張する。そして自己が神との関係を知る度合いに応じて、情状酌量の余地が減少するということから、自己認識により強められた自己が自己の創造主である神の前に立っている存在、すなわちキリストによる購いをうけるべき存在であることを知るとき、それに背くところの罪の度は最大限に強まることになるのである。
 そこからしてキルケゴールは、「厳密な意味では、違法人は罪を犯していない」と言う。それは、「罪を犯すまでに至っていない」という意味である。さらに彼は、このように定義されるところの罪の反対は「徳」ではなく「信仰」であると言い、このことはキリスト教全体のもっとも決定的な規定に属することなのだと言う。
 「信仰によらないことはすべて罪である」とパウロは言ったが、その意味は、人は全人格的に神に従うべきものであり、無限に深い意味において、自己のもっとも深く秘められたる願望と思想においてさえも神に従順であるべく義務づけられているということなのである。
 父なる神さま。私がすべてを捧げ、お任せしてあなたに従うことができますように。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、絶望は罪である

 第一編においてキルケゴールは、絶望という病がどのようなものであるかについて、精神という規定のもとに見た自己認識の高まりとの関係から詳細に考察している。その要旨は、絶望を通じて自己意識を高められた精神が、この「死に至る病」から解放され、本来の自分に立ち返るために必要なのは、自分を捨てて創造主の前にへりくだることなのであるが、絶望者がそれを欲しない場合には、自己が独力で果てしない実験的な努力の悪循環を重ねる内に、もはやいかなる救済の手段も及ばないという極限の段階へと達してしまうということであった。
 そのような段階においては、絶望が外的な要因によって引き起こされるのではなく自分の内部から、つまり絶望している原因は自分自身であり、自分が意図的にそのような状態にあることを意志していることが示されてくることによりさらに回復は困難な状況になってくる。
 そしてこの第二編においては、さらに絶望の度が強められた段階が想定されている。それは「神の前に」という条件が付加されることによる。絶望の度合いは、自分を措定した対象をどのよう認識するかに応じて変わってくるというのだ。絶望の初期の状態においては、自分を措定したものは、何か他人かまたは外部的な物理要因のように感じられており、それが取り除かれさえすれば絶望も消え去るかのように思える。しかし、絶望のより高い段階においては、絶望は永遠なる自己の存在性から生起して来るものであり、自己認識の度合いに応じて永遠に強度を増して行くものである。そしてこの第二編において提示される「神の前に」とう条件は、自己に無限の価値を付加するものであるゆえに、絶望の度合いもまた無限に強められたものとなるのである。
 父なる神さま。あなたの前に一個の精神として立つことができますように。

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