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2006/11/16

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーbーβ)絶望して自己自身であろうと欲する絶望ー強情

 αー2のもとに叙述された絶望は自分の弱さについての絶望であった。絶望者は彼自身であることを欲しない。しかし絶望の弁証法がもう一歩だけ前進して、そのように絶望している人間が、何故に自己自身であることを欲しないのであるかというその理由を意識するに至るならば、自体は逆転して強情が現前する。彼が絶望して彼自身であろうと欲しないのは、実は彼が絶望して彼自身であろうと欲しているちょうどそのためである。
 絶望のこの段階は、非常に危険であると共に、すべてがもはや手遅れとなりかけており、非常な緊張感を内側に秘めている。しかしその外観は、恐ろしいことに、まるでそれを感じさせないような静粛に包まれている。ちょうど悪魔的な存在が人混みに紛れながらも、そこに棲むことをまったく気づかれないように。
 しかしキルケゴールによれば、絶望のこのような高められ、強められた自己意識の段階にして初めて、それを病むところの実存が精神の規定のもとに立つと言えるのである。つまり精神としての人間は、絶望の体験を通り、苦しむことを通してでなければ、神に造られた自分自身の正しい認識へ到達する道はないということなのである。
 それでは、絶望は良いものなのだろうか。否、キルケゴールがこの書の序で述べているように、絶望は決して薬ではなく、返って非常に危険なものであり、下手をすると命取りと言おうか、永遠の破滅、地獄の苦しみがまっているような恐ろしい病気なのである。しかしまた一方で、それにかからないことが最大の不幸でもあるような病である。なぜなら、その場合には、自己の可能性のすべてが閉ざされてしまう結果になるからである。
 この章に述べられているのは、この絶望がもっとも強められた状態、もう手遅れの状態の絶望を病んでいるところの自己の状況である。精神のような形のない、それでいて極度に複雑な対象を規定することは、理詰めの議論では限界がある。それを実際に体験した者のみが自己の反省の力をかりてそれを描写することができる。それゆえ、この段階の絶望をこれほど具体的に記述できることこそが、キルケゴールがかつてそのような絶望を経験し、そこから奇跡的に生還したということの証拠でもあるのだ。
 いずれにしても、この段階の絶望は一般にはきわめて稀であると共に、そこから生還することもまた奇跡的であり、通常は精神はこの絶望の果てに無限に強められた自己の力による悪魔的な狂騒により、手が付けられない凶暴へと突入していくことになる。しかも外見からは、彼がそのような殺意を内に秘めていることを誰にもまったく知られずにである。
 キルケゴールがこのような段階の絶望から生還できたのは、より低い絶望の段階において神と出会い、神の思い出を持ち、神の声色を覚えていたからなのだろう。
 父なる神さま。絶望のときにもあなたにつながっていられますように。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーbーαー2)永遠的なるものについての絶望ないしは自己自身に関する絶望

 キルケゴールは言う。「絶望者は、自分がかくまでに地上的なるものを気にしているのは弱さのせいであり、そもそも絶望することが弱さのせいであることを理解している。ところが方向を正しく旋回して絶望から信仰に到達し、自分の弱さの故に神の前にへりくだることの代わりに、そのような人間は絶望の中に深入りして、自分の弱さに関して絶望するに至るのである。」
 この種の絶望者は、自分の中に永遠な要素すなわち、魂の概念を持っている。そこで彼の絶望は肉体の死によっては終わらないものであり、何者も彼の絶望を妨げるものはない。そこでこの絶望から逃れるには、彼自身が変わる以外にない。
 ところで自分を変えることには、非常な勇気と労力が必要とされるが。彼は弱いゆえにそれを望まず、その状況から逃れようと欲するのである。しかし、何者も自分自身から逃れられる者はいない。そこで絶望者の努力は決して効を奏することがなく、ますます彼を絶望の状態につなぎ止めることになるのである。
 このようにして絶望者はきびしい時を過ごしつつ、少しづつ自己認識を深め、またそれにより新たな深い意味で絶望するという悪循環の中に入って行くことになる。その間にも、彼は他の人と殆ど変わらないような日常生活を送り続ける。そして自分が絶望していることは誰にも知られることがない。
 この状況は時には自殺に通じることがあるほど危険な状況であり得る。そのような人間、一見外からは何の異常も見られないような人間のなかに、実は恐ろしい殺意が渦巻いていることがあり得るのである。
 父なる神さま。人の心の中に何があるかをあなたはご存知です。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーbーαー1)地上的なるものないし地上的なる或る物に関する絶望

 絶望のもっとも最初の段階は、絶望者が自分が絶望していること気づいていない状態であり、これについてはBーaにおいてすでに述べた。
 そこでこのBーbにおいては、絶望者が自分が絶望していることを知っている場合について取り扱われている。そしてその場合の一番初歩的なものが「地上的なる或るものに関する絶望」である。
 この形態の絶望に陥っている人は、そのような外部状況自体が絶望であると錯覚している。ところが状況の切迫状況がどのようであろうとも、神にはすべてが可能であるという絶対的な真理があるゆえに、絶望の中に留まり続けているというのは絶望者自身の意志によるのだ。
 そういうことがだんだんと自己に自覚させてくると、それに応じて絶望に関する自覚も深まって行き、ついに自分が絶望してる対象の違いは問題ではなく、すなわち地上的な或るものではなく、地上的なるものすべて、すなわち「地上的なるもの」に対する絶望へというように高められて行くことになる。
 このように絶望の質とでもいうべきものが向上ないしは転換することにより、実は自己に関する認識も向上していくことになる。そしてついに、絶望者が絶望している対象は、そのような外的な或る要因や外的な要因すべてなのではなく、そのような「外的な要因すべて」というような抽象思考をしている自分自身であることに気づくに至るのである。
 この領域にして初めて、永遠者に関する絶望と呼ぶことができ、そこで絶望者は、そのような自分から逃れよう、すなわち自分を捨てようと思うのかそれともあえてそのような自分自身であり続けたいと思うかのどちらかということである。
 しかしこのように自分が自己すなわち精神を持っている存在であるということには、実は多くの人は気づかずに人生を過ごしている。そして若い頃には、そのような絶望と本気で対決したこともあるいはあったかも知れないが、大人になってからはもうその必要も感じられず、安穏とした暮らしに甘んじていることが多いのである。しかじそれか大きな間違え、それも絶望的な間違えであるとキルケゴールは言う。人生を生きる中で、世の中の仕組みや処世術等のような知識の中には、ごく自然に身に着いてくるものもあるいはあるかもしれないが、こと精神的なことがらは、決して自然に備わってくるということはあり得ないのである。
 父なる神さま。私たちがあなたの姿に創造されたことの深い意味を理解できますように。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーbーα)絶望して自己自身であろうと欲しない場合ー弱さの絶望。

 絶望者が自分が絶望しているという自覚を持っている場合、彼は遅かれ早かれ、彼が絶望しているのは、彼を苦しめている外的な要因ではなく彼自身の状態であるということに気づくのだとキルケゴールは言う。絶望とは彼の意識に深く関わるものであり、実は彼自身が創りだしているものだというのである。絶望が存続するか否かは、常に彼がそれを欲するか否かにかかっている。もし彼が望むなら、彼は自分が今体験している絶望を一瞬のうちに無に解消することも可能なのである。
 それゆえにもし彼が自分の絶望の中に依然として留まっていることがあるならばそれは彼自身が自らそのようにしているのであり、それは彼のわがままなのである。
 そしてこのいわばわがままの形態に、彼がそのような彼自身を嫌い、彼自身であることから逃れ出て今と異なる自分になりたいと欲する形態と反対に強情に自己を主張し続けようとする、すなわち彼自身であろうと欲する形態の2つが存在するというのである。
 キルケゴールの主張は、この二つの形態は、一見反対のものつまり互いに異質なものに見えるかも知れないが、
実は両方共に自己というものを主張しているのであり、そのような自分の状態の認識の度合いにより絶望は、自己自身であろうと欲する形態から、自己自身であろうと欲しない形態へと移行し得るというのである。そしてキルケゴールは、前者の形態を「弱さの絶望」、また公社の形態を「強情」と名付け、絶望者の自己意識の深まりに応じた絶望の形態の移行状況を詳細に描いている。それはあまりにも写実的なので、まるでかつてのキルケゴール自身のことであるかのようであり、たぶんそうなのだろう。
 父なる神さま。あなたは、人生の最良のカウンセラーです。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーb)自分が絶望の状態にあることを知っている絶望

 自分が絶望していることを意識している者は、それを意識していない者よりも自己認識という点で一歩進んでいると言えるかも知れない、しかしそれでも彼が自分の絶望に関する正しい認識を持ってるとは限らない。というのは、彼が認識しているのは、せいぜい外的な要因による圧迫等によるものであるかも知れないから。彼は本当は、そのような外的要因に翻弄されている自分に絶望しているというのが真実なのであるが、そのような認識にはまだ彼は到達していない。それは彼が自分を精神として認識していないからであるとキルケゴールはいうのである。
 キルケゴールがすべての絶望をその主体としての自己に帰結させる背景には、彼のキリスト信仰がある。つまり、人はどのような破滅的な状況に陥っても、つまり極限の飢餓状態とか断崖絶壁に追いつめられるというような事態に追い込まれようと、彼に与えられている永遠の命への望みは、いささかも傷つけられることはないという確信である。そして彼は、キリスト者であれば、みなこのことを認めるべきことを前提としているのである。
 そこで彼によれば、まことのキリスト者は、どのような破局的な状況に陥っても絶望することはない。もし絶望している者があるとすれば、それはそのように絶望している自分自身に絶望しているのだということがいずれ明らかになるといことになる。
 そしてこの自己の絶望状態への正しい認識こそが、絶望者を喚起させ、自己の絶望状態からの脱出を可能とするのであるとキルケゴールは言う。しかしそれはいつもそううまくいくとは限らない。というのは、彼が言うように精神という規定から見た場合には、人間の状態はいつも危機的であるということによる。つまりそのように絶望している人が、自己の真実の状態すなわち彼が絶望しているのは外的要因ではなく、実は彼自身に対してなのであることを理解した場合、彼がその結果、自分のそのようなあり方を改めて、創造主から与えられている新しい自分の可能性に期待して生きるようになるのか、それともまた、かえって余計に強情となり、彼の我を貫こうとするかは、ひとえに彼の自由意志にかかっているからである。
 父なる神さま。あなたに与えられている自分の可能性と使命を知ることができますように。

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