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2006/11/11

裁きの執行者

エゼキエル書 第17章

 バビロン捕囚における神の意図は、イスラエルに対する単なる裁きではなかった。神は、バビロンの王ネブカデネザルを神の裁きの執行者として用いられたのである。その意味で、バビロンはイスラエルにとって単なる敵や異邦人なのではなく、むしろ反対に神の立場に立つ存在ですらある。いや、むしろバビロンはイスラエルに自分の間違えを自覚させ、神との正しい関係に立ち帰らせるという重要な目的をもって神によって立てられたのである。実際バビロン捕囚により、イスラエルは滅ぼされてしまったのではなく、一時的にバビロンの支配下に入り、反省の機会を与えられたのだった。
 しかしこのような、ある意味で寛大な神の配慮に対してイスラエルは、エジプトに助けを求めることにより、神の懲らしめとしてのバビロンの支配から逃れようとし、自らの罪を認識し、悔い改めることをしようとしなかった。神はこのことをエゼキエルを用いて、例えとしてイスラエルに向かって語らせられただけでなく、その意味をも詳細に説明され、そのようなイスラエルの罪に対する徹底した裁きを予告たのであった。
 しかし神は、イスラエルを完全に捨てられたのではなかった。神は裁きと併せて救いのご計画を提示されたのである。それによると、神はこのバビロン捕囚を経て、新しいイスラエルを建てるための民を残しておられる。彼らは神によって直接に立てられ、成長し、実を結ぶ民となるのだ。
 父なる神さま。あなたの深いご計画を理解させてください。

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神の妬み

エゼキエル書 第16章

 神はイスラエルに対して妬みを抱いておられる。しかし神ほどのお方が妬まれるとは。神には、人のように見栄や体裁などはない。神はすべてにおいて最高の誉れを身につけておられる。それゆえに神は誇ることも卑下されることもない。しかしそのような神が、実に妬まれるのである。神は人をご自身の形に創造し、その鼻に命の息を吹き込まれたゆえに。
 神の妬みは非常に強い。それはちょうど最愛の妻を奪われた若い夫のようだ。彼の妻は、自らその相手に姦姻の報酬を支払い、贈り物さえしたのだから。
 父なる神さま。あなたがイスラエルを妬むほどに愛しておられることを理解させてください。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Bーa)自分が絶望の状態にあることを知らないで入る絶望

 いかなる人間も心身の綜合として精神たるべく創られている、これが彼の家の構造である。しかるに彼は地下室に住むことすなわち感性の規定のもとに生きることを好むのである、とキルケゴールは言う。実際人間はまるで費ソクラテス的なことには誤謬のなかに生きていることを何よりもこわがらないのであると。
 彼がこわがるものは、彼の心すなわち感性を不快にするものすべてであり、そのような外的要因による被害が甚大に達し、彼がもはやそのような状態から逃れられなくなったときに初めて彼は、そのような自分の状態を絶望と認識する。
 しかしそこに達するまでに、実際に彼の心の中で何が起こっていたのかを彼は知らない。実際に起こっていたことは、彼の認識が真実とはとてつもなく異なる方向へ向かって行っていることなのである。正確には、彼は自分の心の状態を誤って認識したので、そのことにより弁証法的に否定一つ分だけ真理から遠ざかっており、そのようにして多くの人は、真理から何重にも遠ざかってしまっているのである。彼らが再び真理への道を辿るためには、もと来た道を逆に辿るしかない。すなわち、たくさんの否定の扉を逆の順番でくぐり抜けなければならないのである。
 ああ何ということであろうか。この世界の様々な文化や芸術、人の心を喜ばせ、豊かさを与えると思われるようなたくさんの一見良いと思われる多くのものが、そのような誤謬の産物で有り得るとは。そのようにして構築された無意識的な誤謬によりこの世界が成り立っているとは。
 しかしそのようなキルケゴールの主張は、本当に当たっているのであろうか。しかし彼が主張するように、絶望が意識されていない状態が日常的であるということを認めるなら、上のことが真理であることもまた認めざるを得ないだろう。
 父なる神さま。真理への道をガイドしてください。

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回復の望み

エゼキエル書 第15章

 クリスチャンは、よくぶどうの木に例えられる。その場合、幹である神につながっていなければ、枝は実を結ぶことができない。この枝が一人一人のクリスチャンである。神は、バビロン捕囚により、一つ一つの枝を幹であるご自身から切り離して焼いてしまわれた。これはぶどうの枝であるイスラエルの民にとっては決定的なことだ。もはやイスラエルの民には何の望みも残ってない。彼らのすべての望みは、神の裁きとしてのバビロン捕囚により、断たれてしまったのである。もはやそこには、どんな望みも残ってはいない。すべては終わってしまったのである。
 これは、ちょうどノアの日のようであり、シナイの荒野の試みのようなものだ。神の裁きが完全に行われ、裁かれた者は完全に滅ぼされた。しかし神は、そこにノアを残された。またヨシュアを、カレブを残された。そしてこのバビロン捕囚においては、その他にも何人も残しておられるのだ。
 父なる神さま。あなたの高いご計画を心に示してください。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(B)意識という規定のもとに見られたる絶望

 「絶望は、主としてそれの意識性という観点において考察せられねばならぬ。絶望が意識されているかいないかということが絶望と絶望との間の質的相違を形成しているのである」とキルケゴールは言う。
 絶望している人、彼は当然それを意識しているはずでありその観察は正しい。しかしキルケゴールが主張するのは、意識されていない絶望、やがて後になって意識されて来るであろう絶望、すなわち絶望予備群というものが存在し、実はこのような絶望の方が意識されている絶望よりもはるかに数も多く一般的なものであると共に、意識されていないというまさにそのことにより、ある意味ではより恐るべきものであるということなのである。
 この第一編のAでは、まず絶望が意識されているかいないかに関わらないような観点から絶望を観察した。そしてこのBで議論は核心に入り、意識という観点から絶望を考察することになる。
 絶望を弁証法的に捉えた場合、それが意識されていない状態より意識されている状態の方がより進んだ状態と言え、それは、意識の強さに応じて強まって行くものである。しかし、絶望からの救済という観点からは、必ずしもそうとは限らない。絶望から救済されるためには、少なくともそれが意識される必要があることは事実である。しかし、絶望がひとたび意識されたあとは、人がそのような自己の状態を正しく認識し、創造者の前にひざまづき、全面的な信頼をもって全能者の助けを期待するということが必要なのである。
 このように絶望からの救済可能性は、絶望が意識されてさえいれば、原則的にはどのような状態からでも可能のように思える。しかし、キルケゴールがここで主張するのは、意識されたる絶望の高度な状態のなかに、救済が不可能な状態、すなわち悪魔的な状態が存在するということである。
 父なる神さま。あなたの前にひざまずき、自己の可能性を知ることができますように。

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心の偶像

エゼキエル書 第14章

 人の心にはいつも像がある。彼はそれをもって、この世界と神のご計画を把握するのだが、問題はこの像が静的なものであり、この世界と神のみ心のある一時点における姿のみを写したものであるということである。
 もし彼が、時と共に変化する外界と神からの要請に応じて彼の心の像を更新することを怠るなら、彼の心の像は、次第に空虚なものになり果ててくる。しかし彼にとって、一度できてしまった自分の心の像を外界の変化に正確に対応させるには、祈りという労働を必要とする。もし彼に十分な神への愛があれば、彼は喜んでそのことを行うに違いない。しかし不幸にもそうでない場合には、彼はその代わりに自分で心の像を、想いに任せて装飾することにより満足してしまうことも予想されり、ここに彼の心に偶像が生じることになる。
 恐ろしいことには、彼の心に生じたこの偶像は、彼と神の間を遮断し、神のみ心を見えなくしてしまう。その結果彼には、自分が作りだした偶像が神となってしまうのだ。
 しかし、どうしてそのような不幸な結果が生じたのかと言えば、それは実は彼の心の想いが邪悪なものだったからなのだ。この章で神がイスラエルの預言者を弾劾しておられるのは、このようなことを背景として、人の心の邪悪な思いは、彼がどのように巧妙に神と民の前で立ち回ろうとも、すべてその邪悪な者の上に帰するということである。神は決して侮られるような方ではない。神の裁きはいつも個人レベルで遂行される。
 大量の人の上に突然に大きな裁きが臨み、罪のない多くの人もその犠牲になったように思われるが、そうではないと神は言われる。神がそれを彼らに明らかにされるとき、イスラエルは、まことの神がおられることを知るようになる。
 父なる神さま。あなたの前に、正直な心で生きられますように。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Aーbーβ)必然性の絶望は可能性の欠乏に存する

 必然性の絶望とは、すなわち決定論的または宿命論的な考え方である。つまり「どうせ結果は決まっているのさ」とか、「所詮やっても無駄だよ」というような考えがこれにあたる。この必然性の絶望に陥っている者は、言わば魂の窒息状態にあり、生きて活動するための呼吸ができない状態にあるとキルケゴールは言う。
 そのような意識状態は、あるいはクリスチャンとは縁のないもののように思えるかもしれない。しかしこれは、伝統的なキリスト信仰の中にも見られるような種類のものである。すなわちカルバンの予定論がそれである。いや正確には、予定論的な思考をする人がそれである。予定論は高度な教理であり、決定論とは区別すべきであろう。しかし多くの人がそれ決定論的に考え、不安の中に落ち込んでいるのも事実のようだ。
 キルケゴールによれば、そのような考えから人を救い出してくれるものは「神にとっては一切が可能である」という信仰なのである。信仰?そう、まさにそれは信仰であり、信仰とは理由なく信じることであり、実に神を獲得するために、正気を失うことであると彼は言う。
 信仰は狂気と紙一重であり、信じる者を保障するものは、神が実在するというまさにそのことなのである。そしてそれは同時に自己の存続すなわち可能性の唯一の源なのである。
 父なる神さま。あなたから来る、自己の可能性の中に成長して行けますように。

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偽りの結ぶ実

エゼキエル書 第13章

 神のもっとも嫌われるものは偽りの心である。それゆえ神は、人の心にある偽りを明らかにするための様々な計略を持っておられる。その一つは、預言のシステムである。神は人の心にご自身の計画を語られる。しかし非常に小さな声で。そこで、神の前に自分の身を非常に低くする者だけがそれを正しく聞くことができる。
 神の声を聞こうとする者の心に、もし邪な思いが少しでもあるなら、彼は自分の声を神の声と間違って聞いてしまう危険性がある。神は、邪な思いを持つ者と行動を共にされることはない。神は、邪な思いを持つ者が決して入って来ることのできない迷宮を抜けたところに住まわれるのである。その迷宮は、邪な思いを持つ者には決して通り抜けることができない。そればかりか神は、ご自分を取り囲むその迷宮とさえ、まったく関係を持たれることはない。神は、それらのすべてと全く断絶したところに住まわれているのである。というのも、その迷宮とは、邪な思いを持つもの自身が作りだした偽りの構造物、おとぎ話なのだ。それゆえその迷宮に自ら迷い込む者は、己の邪悪な行いの実を自ら食らうことになるのだ。
 エゼキエルは、聖地エルサレムから遙か遠く離れた異教の地バビロンに住みながら、当時の民の中でもっとも神に近いところに住んでいたのである。
 父なる神さま。あなたに近く住まいすることができますように。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Aーbーα)可能性の絶望は必然性の欠乏に存する

 一般的には可能性というものは、人間に希望を与えるものであり、絶望に陥れるようなものではない。しかしキルケゴールがここで提示しているのは、「可能性の絶望」というものである。それは言うなれば、人が自己の可能性に溺れるようなものだ。そして彼にはついに、どんなことでも可能に思えてくる。彼は、自己の可能性の実現にはいつまで待っても取りかからない。実現可能と判定されるものは、彼にとってはすでに半分、いや殆ど実現したも同然なのであり、その完遂に彼は興味を示さないのである。そして彼は、次々とやりかけの仕事を取り替えて行き、そのようにして自分の成してきた偉業により自己を実現して行くのである。
 しかし、立ち止まって良く考えてみると、彼は実際は何一つ物事を成していないのだ。そして彼にとっては成し遂げるということは、すなわち終わってしまうことであり、それはむしろ彼の可能性を滅ぼすもののように見える。これは彼の可能性の積極的な側面であるが、もうひとつ消極的な側面からは、実現に取り掛かる、すなわち彼が現実的な物事に実際に関わりを持つということへの恐怖心のゆえに彼はそれに取り掛かることを先延ばししているのである。
 そのような彼にどこか似ている人が、私たちの回りにいないだろうか。しかしキルケゴールがここで警告しているのは、そのように生きる人は、実は自己を実現しているのではなく、偽りの自己を次々とでっち上げているだけなのである。つまり彼は、永遠に彼自身となることはないということなのだ。
 父なる神さま。物事から逃げ、目を背けてしまうことのないよう、お導きください。

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