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2006/11/07

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Aーb)可能性と必然性の規定のもとにみられたる絶望

 「自己とはむろんそれ自身なのであるが、しかしまたそれは一方でそれ自身になるべきものでもある。それがそれ自身である限りにおいてはそれは必然的なものであり、それがそれ自身になるべき限りにおいては、それは可能性である」とキルケゴールは言う。
 自己の中に、自分自身で把握できる部分と把握できない部分とがある。この把握できる部分に自己が満足できないと彼の心にはストレスが生じることになる。そのとき彼自身に把握できない部分に可能性が残されているのであり、それが救いともなる。しかしその場合、彼がこの可能性をどのように用いるかが問題となる。つまり、彼が自己の把握できる部分の利己的な改善のために自己の可能性を使おうとする場合、その努力が効を奏して、有る程度
世において成功を修めることができるかもしれない。しかし、そのことにより彼はもっとも大切なものを失うことになる。すなわち彼の自己を。というのは、彼の可能性としての無限性は、そのような利己的な開拓ないし開発によっては、いかにしても十分に花開くことも充足することもできないほど尊いものなのだからである。
 父なる神さま。あなたに創造された自分自身をそのありのままに認識することができますように。

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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Aーaーβ)有限性の絶望は無限性の欠乏に存する

 「人間は人間を恐れるのあまり自己自身であることを全く放棄するようなことがあってはならない。いわんや他人に対する恐怖だけのために、自己がその本質的な偶然性のままに自己自身であることをあえてする勇気を放棄するようなことがあってはならない」とキルケゴールは言う。
 しかしこういうふうに自己を放棄する人は、まさにそのことによってかえって世間で成功する骨を体得するに至るという。つまり社会で成功している人間の多くは、このような形態において絶望している人だとキルケゴールは主張するのである。
 この種の絶望にも人々はほとんど気づかずに生活していることが多い。しかしこのように他人に媚びへつらうことは世間のごく一般的な傾向でありそれはまた、絶望が非常に一般的な病であることを意味している。しかしこの種の絶望は、非常に危険なもので有りうる。というのは、そのように生きる者は、そのことによって自己というもっとも大切なものを失ってしまうからである。この世の過ぎ去るべき虚しい利益と引き替えに。しかし彼は、自分が何のために生まれてきたのかを決して知ることがない。すなわち、彼自身となるという彼の使命を。
 父なる神さま。私たちの心の目を開いてください。

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第二の捕囚

エゼキエル書 第12章

 エゼキエルはバビロンにおいて、そこにすでに連れてこられている捕囚の民たちに、まだエルサレムに残っている者たちに臨もうとしている災いについて語った。すなわち、彼らに第二のバビロン捕囚が迫っていることを。そして、その捕囚は第一回目の捕囚よりもさらに悲惨なものであることを。
 彼らは捕囚にされながら、その行き先の地バビロンを見ることはない。彼らはバビロンを越えて、さらに見知らぬ国々へ散る散りにされる。そしてその地で、剣と飢えと疫病が臨み、彼らは恐れながら食物を食べ、水を飲むようになる。そして、彼らはそのような預言は、遠い将来のものだと思っているが、神は速やかにそれを実現されると。
 しかし神はそれらの捕囚の人々の中に、選びによって少数の人々を残す。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるように。
 父なる神さま。聖書の記録を厳粛に受け止められるようにお助けください。

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