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2006/10/31

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 三.(Aーa)有限性と無限性との規定のもとに見られたる絶望

 絶望とは、一言で言えば「自己がそれ自身でないような状態」と言える。これは一種の分裂関係でありそれは、実に自己というものが、有限性と無限性の両方の側面を持った綜合であることに起因する。
 そこで人は、自己に与えられた無限の可能性を十分意識しながらも、現時点で発展途上にある彼の自己を完全に受け入れ、感謝のうちに、全くその時々の彼自身の使命に生きていなければならない。キルケゴールによれば、このことはただ神への関係を通じてのみ実現せられ得ることである。そして彼によれば反対に、そうなっていない状態はすべて絶望なのである。
 父なる神さま。あなたによって、絶望から完全に解放されますように。

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回復の預言

エゼキエル書 第11章

 神は今度は、エゼキエルを東の門に運び、そこでも神に対する冒涜が行われているのを見せられた。第一回目のバビロン捕囚で残されたエルサレムの人々は一安心し、その心は悔い改めに至らなかったばかりか、捕囚で連れ去られた人たちは、何か悪い行いでもあったのであり、残された自分たちは、当分はこの都で平安に暮らせるものと思い上がっていた。しかし神は、むしろ苦しんでいる捕囚の民と共におられたのだった。
 神はエゼキエルに、エルサレムに残された人々に向かって、悔い改めを促す預言をすることを命じた。すると彼が預言しているうちに、ベナヤの子ペラトヤが死んだ。エゼキエルはびっくりして、「ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と叫んだ。
 神はエゼキエルに、将来なそうとしておられることを示された。それは、多くの苦難の後に、彼らは再びエルサレムに帰って来て、そこでまことの心をもって神を礼拝するということである。それがどのように可能なのかエゼキエルには理解できなかったであろうが、神はエゼキエルに言われた。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」
 しかし神は続けて言われた。「しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする」と。
 父なる神さま。あなたを恐れて人生を歩めますように。

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