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2006/10/30

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 二.この病(絶望)の普遍性

 通俗的見解は、絶望がどういうものであるかを十分に理解していないとキルケゴールは言う。すなわち自覚症状のない絶望があるばかりか、むしろその方が絶望の一般的な形態であり、そのことを理解していないと言うのである。
 彼は、絶望は精神の病であり、従ってそれは弁証法的な性格を持つと言う。つまり、ひとたび絶望が顕わになるやいなや、その人が実は過去ずっと絶望していたということが顕わになるというのだ。もしその通りなら、絶望は私たちが考えているのとは反対に、むしろ非常に一般的な病となってくる。
 しかし絶望が非常に一般的な現象だとしても、それが恐れるに足らないものということにはならない。一般的な見解、特に日本人に特徴的な見解によれば、大多数の人に当てはまることは正常なことであるということになっているようだ。しかしこれは絶望という病には当てはまらない。なぜなら、絶望は人間の根元的な存在構造に関わるものであり、その分裂の可能性であるからである。この可能性から解放されない限り、その人の内に平安はなく、その人に与えられている永遠という時の前で、この可能性はついに現実となるに至るのである。
 「ああ、もしもいつか砂時計が、人生の砂時計がめぐりおわるときが来たら、そしてこの世の喧噪が沈黙し、せわしない暇つぶしの営みが終わりを告げ、君の周囲にあるものすべてがあたかも永遠におけるが如くに静まり返るときがきたら・・・」
 キルケゴールが提起するそのような最悪の結末を回避する方法は、彼によれば、人が一個の精神として生きること、自分が精神的な存在であり、地位や名誉、財産とは関係ないということを自覚して生きること、つまり神がそこにいまし、そして彼がこの神の前に現存しているのであることに気づいて、最深の意味でそれを痛感するに至ることをおいてないのである。
 父なる神さま。あなたの前に正直に生きられますように。

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