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2006/10/29

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 一.絶望が死に至る病であるということ。(C)

 「絶望は、死に至る病」であるというのがキルケゴールが主張することである。しかし彼は、この「死に至る病」という名称を特別な意味に使っている。すなわち、この病は、その結果「人間が死を迎える」というのではなく、むしろ「死では終わらない病」なのである。彼が言っている「死」とは、キリスト教が言うところの「魂の死」を意味する。すなわち「永遠の死」なのである。
 絶望は、人間性の根源における病であるゆえ、そして人間は、自分自身に関係するところの存在、すなわち自分の責任を自分で負わざるを得ない存在であるゆえ、この「絶望」という病は、人間の意識がある間ずっと、すなわちキリスト教的には永遠に、抜け道の無い病となり得るのである。
 彼は絶望の絶頂なる状態を次のように言い表す、すなわち「絶望者にとっては絶望が彼を食い尽くさないということは何等の慰めでもない。その逆に、この慰めこそかえって、虫の死ぬることがないという彼の苦悩なのである。自分自身を食い尽くすことも自分自身から抜け出ることも、無に帰することもできないことの故に彼は絶望したのである」と。
 人は最初、何か外的なもの、たとえば試験に落ちたとかいうことに絶望する。しかし次の段階で、実は彼が絶望しているのは、彼自身についてであることが明らかになってくる。そして彼はそのような自分を捨てようとするのだが、その努力は、ますます彼を絶望に釘付けにすることになるのである。なぜなら、彼は自己の責任を自分で取らなければならないような存在、すなわち自分を見ているところの存在として創造されたのだから。
 父なる神さま。絶望の恐ろしさと、それから逃れる道を教えてください。


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「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 一.絶望が死に至る病であるということ。(B)

 絶望は、人間という高度な生物だけが陥ることのできる病であるゆえに、それはある種の優越性と言える。しかし、絶望すること自体は、決して誇れるものではないばかりか、無限に危険なことでさえある。このように絶望は、弁証法的な病なのである。
 キルケゴールは、絶望が人間存在そのものの中に、可能性として最初から潜んでいると言う。人間という綜合(さまざまなものが関係した高度な集合体)が、神の手により、根源的に正しい関係に据えられたものでなかったなら、絶望は起こりえないと彼は言うのである。人間が自分を見つめる存在、すなわち自分で自分の責任を取らざるを得ない存在であるところから、この絶望という可能性が由来するというのである。
 絶望は、ひとつの可能性、キルケゴールによれば、綜合としての人間が分裂を起こす可能性なのであると言う。しかしそれは、あくまで可能性であり、分裂が実際に起こるというのではない。なるほど、絶望というのはそのようなものだ。絶望しているのは、本人であり、傍から見ればそれは特段の問題ではないようなこともあるだろう。そこでこの可能性としての絶望が継続するかそれともすぐになくなってしまうのかは、人間がそれに固執するか否かによるというのだ。ちょうど「病を招く」という言葉のように、人間は、自ら絶望を自分におびき寄せていると彼は言う。
 ここで驚愕すべきことは、絶望とは、そのように本来稀であるはずのもの、人間がそれに固執しさえしなければ消滅してしまうような性質のものでありながら、世間一般においては、これがかなりの頻度で見受けられること、そのことの中に、人間というものの置かれている耐えざる危機的な状況が浮き彫りにされるということなのである。
 父なる神さま。あなたの啓示により、真の自分の姿を見ることができますように。

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主の栄光が神殿を去る

エゼキエル書 第10章

 ついに神の栄光が神殿から去るときがきた。神は、ケルビムの車に乗って神殿を出られるのだ。神の栄光は、最初購いの座から神殿の敷居へ移った。神殿の中庭には、ケルビムの車が来て、翼を羽ばたかせていた。その音は、外庭にまで聞こえ、神殿とその中庭は雲で満たされ、庭は神の栄光で満たされていた。神は、以前街を破壊するために遣わした亜麻布の衣を着た者に向かって、「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、4つのケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と命じられた。亜麻布を着た者は、ケルビムの手から神の怒りである燃える炭火をその手に受け取って出て行った。神の栄光は、ケルビムの車に乗り、神殿の敷居から東の門の入り口へ来てもう一度止まった。
 神は、どんなにかこの神殿から離れるのをためらわれたのだろう。この都は、神の命により、地上最高の知者ソロモンの元で、多くの匠の手によって作られた。それは、まことに神の御心にかなうもの、まことに神がそこに臨在される所であったのだ。神は、かつてソロモンに、「わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く」と言われた。そのすべてにおいて完璧な作品であったこの神殿から、いままさに神の栄光が去ろうとしているのであった。
 エゼキエルは、その神々しい栄光の顕現を前にして、無言、無心でそれを見送った。彼の心には、このときすでに何かが与えられたのだと思う。すなわち、神の栄光は永遠に去ったのではないということが。神は、今ケルビムの車に乗り、神殿から去られるのと同じ姿で、またやって来られるだろうということを。
 父なる神さま。ただエゼキエルだけが、あなたの心を知ることを許されたのですね。

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都の破壊

エゼキエル書 第9章

 神は、偶像に汚れたエルサレムを破壊するための御使いを備えておられた。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」という号令と共に、6人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやってきた。彼らが青銅の祭壇の傍らに立つと、契約の箱の上、購いの座にあるケルビムの上にとどまっていた神の栄光はそこから昇って神殿の敷居の方に移った。
 神の臨在が聖所を離れるやいなや、破壊が始まった。その6人の男の一人が、都の中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいた者の額に印をつけた。その後ろに、虐殺する者がついて都の人々を打った。エゼキエルはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて泣き叫んだ。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルに残っている者、バビロンに連れ去られずにいた者をすべて滅ぼしつくされるのですか。」
 エゼキエルには、この破壊を止めることができなかった。彼に主の大いなる怒りを止める力はなく、その使命もない。彼はなぜ、何のためにこのとき、預言者として立てられていたのか。それがエゼキエル書の重要なテーマだと思う。
 父なる神さま。エルサレムを破壊されたときのあなたの気持ちは、どんなにかつらかったのでしょう。あなたは、その感情をエゼキエルと共有されることを望まれたのですね。

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激怒を招く像

エゼキエル書 第8章

 エゼキエルの元にユダの長老たちが来て座った。彼らは、エゼキエルに神への取りなしを頼みにきたのだろう。するとそうしているうちにエゼキエルの上に神の御手が臨み、彼の前に幻が現れた。彼はかつてケバル川のほとりで大空高くにしつらえられた主の栄光の幻を見たが、それと同じ栄光の姿を見た。その人の姿から手の形が出て、エゼキエルの髪の毛の房をつかみ、中空に引き上げ、エルサレムへと運び、都の北に面する内側の門の入り口に置いた。そこには激怒を招く像が立っていた。このようなものがある場所に、神はお住みになることはできない。このようなものが立てられたからには、もう神はここから出て行かなければならない。神は、エゼキエルに言われた、「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。
 彼らは神殿の中で、あらゆる偶像を作り、拝み、異教の神を恋い慕い、礼拝していたのだ。神がエゼキエルにユダの長老たちの心の中になにがあるかを見せられたのだった。神は、エゼキエルに告げられた、「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、哀れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない」と。
 父なる神さま。私たちの心の中に、どれほど危険なものがあるかを日々教えてください。

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