« 2006年10月27日 | トップページ | 2006年10月29日 »

2006/10/28

「死に至る病」:第一編 死に至る病とは絶望のことである。 一.絶望が死に至る病であるということ。(A)

 人間は、自分というものを外部から眺めることのできる存在であり、そこが動物と異なるところである。人間だけが、自己を評価し、反省することができる。すなわち、自分が自分に関係する存在であり、自分の中に自分を見ている自分がいるのである。そして、「絶望」とはまさにこのような人間の状態から発生してくるものであり、その限りにおいて、動物にはなく、人間のみがかかりうる病なのである。
 キルケゴールはさらに問う。人間のこのような状況は、自分でそうなったのか、何か他の存在からそのように創られてしまったものなのかと。もしそのような状態に自分自身でなったのなら、そのような人間が絶望した場合には、それは自分が招いた結果であるから、彼はついに自分に絶望し、彼自身であることをやめようとするしかないであろう。しかし、人がもし絶望してもなお、彼自身であることをやめようとしない状態、すなわち強情に悲しみ続けたり、凶悪になったりするようなことがあるとすれば、そして、それは良くあることのように思えるのだが、それは、何を意味しているかと言うと、人間の自己が自分自身を見ているという、すなわち自分の中に自分がいるという状態を措定(設定)したのは、自分ではない、つまり神さまか誰かによって、彼は創造されたということを意味しているとキルケゴールは言うのである。
 父なる神さま。私たちの心を研ぎ澄まして、あなたに目を向けさせてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「死に至る病」:緒論

 「死に至る病」と呼ばれているのは、「絶望」のことであり、心の病とも言える。しかし、キルケゴールによればそれは、「弁証法的な病」なのである。「弁証法的なるもの」それは、常に2つの面を持つ。すなわち、良い面と悪い面を同時に併せ持つのである。つまり、人間にとって薬的な面と病的な面の2面性を持つ。もともと人間にもこの両面がある。すなわち、健康的な面と病的な面である。人は、あるときは喜び、あるときは悲しみつつ人生を歩むのが人間である。その際、人間自体の質はまったく変わっていない。ただ、それがあるときは良く見え、あるときは悪く見えるのである。そして「絶望」とは、この悪く見えるときの極端な状態なのだろう。しかし実際は、そのとき人間が実際に悪くなっているというのではなく、悪いと思い込んでいるのであり、周りの状況等々から、そのように見えるのである。そしてその結果、自分の命を絶つというような不幸なことも起こってくることになる。そのようなときには、絶望は病と見られるのである。そして人は、キリストを信じることにより、この「死に至る病」から真に開放されるのである。
 しかしキルケゴールによれば、問題はそれほど簡単ではない。彼は、「絶望」を、その弁証法的な側面から深く観察し、恐るべきことを発見した。それは人間が、自分は絶望していないと思っていても、実は絶望していることがありうるということであった。それは、長い時の末、彼の中に隠れていた絶望が姿を現すときに明らかになる。そうだとすれば、クリスチャンも絶望しているのかも知れない。そう、まことのクリスチャン以外の者は、実は絶望しているのかもしれない。
 この著書「死に至る病」は、キルケゴールからの、優等生クリスチャンへの痛烈な批判と警告のメッセージなのだ。
 父なる神さま。あなたに正直に生きることができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「死に至る病」:序

 キルケゴールは、この難解な著作「死に至る病」をキリスト教の学問的な探求のためではなく、信仰の教化のために書いたと言っている。彼にとっては、キリスト教に関することは、たとえそれが学問的な探求であっても、すべてが信仰の教化に役立つべきだというのである。
 そのような意味から彼は、単なる知的好奇心の産物としての学問を嫌悪する。曰く、「学問の超然たる英雄的精神なるものは、英雄的精神であるどころかむしろキリスト教的には、非人間的な好奇心の一種でしかない」と。
 そして、彼が目指している最も崇高な人間の姿とは、まことのキリスト者の姿であり、曰く、「キリスト教的な英雄精神とは、人間がまったく彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的な人間であろうとあえてすることであり、かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つことである」と。ここに彼の実存主義者たるゆえんがある。
 このブログにおいては、別テーマで「ブルトマン研究」を展開しているが、ブルトマンが目指したことの一つにキルケゴールの再評価があると言われるのもこのようなことを背景としてうなずけるように思う。
 父なる神さま。あなたの前に、一人の人間として立ちつづけることができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年10月27日 | トップページ | 2006年10月29日 »