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2006/10/21

愛と息吹

エゼキエル書 第1章

 紀元前600年ころ、イスラエル民族の背信による神の裁きにより、ネブカデネザル王が攻めてきて神殿の貴重な祭具類を奪い、ヨヤキン王を捕らえてバビロンへ連れて行った。エゼキエルもこれらの民の中にいた。
 彼は祭司の子であったが、捕囚の民とともにケバル川のほとりに住んでいた。故郷イスラエルを遠く離れ、ちょうど5年の歳月が過ぎていた。彼の中では、すべての希望が尽きようとしていただろう。神は、なぜ沈黙されているのか。弱り果ててしまわれたのか。イスラエルをお見捨てになったのか。そのような思いが彼の心に渦巻いていたと思われる。と、そのとき、エゼキエルの心に誰かが語りかけた。彼が我に返ると、全能の神の御手が彼の頭の上に延べられているのを感じた。神は、激しい風をもってエゼキエルに迫って来られた。その風は雲を巻き起こし、雲は火を発し、4つの恐ろしい生き物がその中を旋回していた。
 イスラエルの神は生きておられた!そして、嵐のようにエゼキエルにその存在を現された。これこそ彼が最も待ちに待っていたもの、これ以外の姿で神が現れられることは考えられない。神は、何をしに来られるのか。ご自身の愛するイスラエルを救いに来られるのだ。しかしその実現は、まだ遠い彼方である。それでは神は、何をしに来られたのか。ご自身のために、預言者を起こすために来られたのだ。
 神は、捕囚の民の中からエゼキエルを選び、彼にご自身を現された。その姿は、恐ろしい生き物のはるか頭上、大空の上、サファイヤのように見える座にあった。その栄光の姿を見たエゼキエルは、ひれ伏した。
 父なる神さま。愛と息吹は、共にあなたから発します。

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捧げもの

レビ記 第27章

 レビ記の最終章が、捧げもので締めくくられているのは、意義深いことだと思う。神は、自発的な犠牲を喜ばれる。それが捧げものである。神は、人に自由意志を与えられた。だから、すべての人は、自由な人生を送ることを許されている。しかし、本当は、すべての人を創造されたのは神である、この世界、宇宙を創造されたお方である。そこで、厳密なことを言えば、自由もなく、個人の所有物も本当は存在しないのだと思う。そこで、捧げものとはなにかと考えてみれば、それは結局、神への従順ということではないだろうか。だからそこに自発的なことが理想とされるのだ。
 神は、ここで驚くべきことを命じている。一度捧げたものを買い戻す自由を与えているのだ。しかし捧げたときの価値にその5分の1を加えて買い戻すことができるという。捧げものを捧げたときに祭司その価値を算定するのは、おそらくそのためなのだろう。
 神は、これらのことを通じて、最後には、人の心が永遠に神の元へ帰ってくることを願われているのだと思う。そう永遠に。そのようにして、創造されたすべてが、永遠に神の元へ帰るように。
 父なる神さま。永遠にあなたの庭に植えてください。

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契約の実現

レビ記 第26章

 神はアブラハムと契約を結び、その実現のために、イスラエル民族をエジプトから導き出し、約束の地カナンに連れて行かれようとしておられた。
 そしてその実現を前にして、次の契約の内容を語られたのである。それは、契約とは言われてはいないが、内容自体は、神がかつてアブラハムと結ばれた契約に匹敵するものと言えるだろう。それは、イスラエル民族が約束の地で神に背き、神に捨てられ、再び異邦の敵の地へ連れて行かれる、しかし彼らがその地でもう一度神に向かって叫び、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は再び彼らを赦し、もう一度神の聖なる民としてくださるというものだ。
 神の契約とは、つまり預言のようなものだ。だからそれは必ず成就する。この新しい契約は、神がアブラハムと結ばれた契約とどこか似ている。一度奴隷になった後に再び連れ戻されるというところがである。しかし、アブラハムとの契約の場合は、奴隷となったのが不信仰の結果ではなく、外的な要因であった。しかし、これから起ころうとしているのは、大いなる背信なのである。なぜ神はこのようなことを契約として結ばれようとされたのだろうか。それは、その背信が必然的なものであるからだろう。つまり、罪の中にあるイスラエルにとって、背きは時間の問題であり、それから逃れるすべはなかった。そこで神は最初から、背きと赦しを契約の中に含められたのだろう。
 契約であるからには、それが有効とされるための条件が存在する。それは、イスラエル民族がモーセを通して与えられた神の律法を守ることであるが、彼らにはそれを守る力がなかったのだった。
 父なる神さま。あなたの律法を心に刻んでください。

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ヨベルの年

レビ記 第25章

 神は、イスラエル人をエジプトから導きだし、乳と蜜の流れる地カナンを与えようとしておられた。それは、神がアブラハムと結んだ契約に基づいていた。しかしこれらのことを通して神は、イスラエル人をご自分に仕える聖なる民としようとしておられたのであった。そこで、イスラエル人が約束の地カナンに入り、そこを受け取り、定住するにあたり、神はいくつかのことをお命じになった。
 それらはまず、7年毎の休耕である。イスラエル人は6年の間種を蒔き、土地を耕し、収穫を得て良いが、7年目には土地を休ませるため、いっさいの農耕をしてはならなかった。そのために神は、6年目には通常の3年分の収穫をお与えになると言われた。6年目の分と7年目に何も収穫がない分、さらに8年目のまだ収穫が十分でない分までも、神が補償してくださるというのである。神の命令に服従することにより、神の民が損害を被ることはないのである。
 もう一つは、ヨベルの年である。これは、エジプトにおける40年間の奴隷生活からの解放を記念するものであり、この年には、すべての負債が帳消しになるというものだ。たとえその負債が、公に対するものであっても、また個人に対するものであってもである。
 人が貧しくなって財産を失い、家族や自分を奴隷として売るようなことがあれば、神はこれを喜ばれない。なぜなら、その人は神に仕えず、人に仕えるようになるからである。神はイスラエル人をそのようなことの為にエジプトから連れ出されたのではなかった。
 神は、人が物においても、お金においても、またいっさいの希望においても、ただ神にのみ仕えることを望んでおられるのである。
 父なる神さま。ただあなたにのみ仕え、あなたの大庭に精神的に植えられることを望みます。

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