« 2006年10月17日 | トップページ | 2006年10月21日 »

2006/10/18

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第八節 遠くして近き神・罪と赦し

 この最終章にして最終節には、この著書「イエス」を通してブルトマンが言いたかったことが凝縮されている。彼はこの節の最後の方でこう言っている。「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない。イエスの言葉は果たして真理であるのか。イエスは果たして神につかわされているのか。これが、聞き手のせまられている決断なのである」と。
 ブルトマンはただ、キリストが提供する罪の赦しに与る機会を人が正しく受け取るようにと勧めているのである。人はこの機会を、自分がこれから聖書かなんかを読んでせいぜい良い人間になって行くための一つのきっかけにするようなことをしてはならない。なぜなら、人はそのようにして罪を購われるのではないのだから。また、キリストの十字架を神の全世界への愛の表現として宣べ伝えるようなこともすべきではない。なぜなら、そのような宣教によっては、誰一人罪を赦されることがないであろうから。
 キリストがあなたに語ったのはただ次のことである。すなわち、あなたが今は罪人であること。そして、あなたが神との個人的な関係を修復することにすべてを捧げる意志があるなら、神はあなたの罪を赦し、もう一度あなたを本当の神の子として迎えてくださる、ということなのである。
 そしてその永遠の救いは、決して主観的なものではなく、あなたがキリストを神から遣わされた者と信じ、その言葉に従って悔い改め、神の意志に生涯服従しようと決心したまさにそのときに、あなたに対するまさに歴史的な事実として生起するのである。
 父なる神さま。主イエス・キリストにおける永遠の救いを感謝します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第七節 父なる神

 ブルトマンは、イエスは「父なる神」という言葉によって神と人についての新しい理念を宣べ伝えたのではなく、それはユダヤ教における概念に等しいと言う。
 そしてそれは、他の多くの宗教に見られるような人間把握すなわち、人間は神的な全コスモスの一部分として、本性からして神と類縁を持ち、その子であるというような思想とは真っ向から対立するものである。つまり、人は生まれながらに神の子であるのではなく、神に対する服従と神の救いの業によって神の子となり得るという。
 しかし彼はまた一方で、このような神の子となる可能性は、もちろんすべての人間に存しているのであって、神の子であるような特色ある性質をもっている特別な人間を考えてはいけないとも言う。
 ここに人間把握、すなわち人間が自らを把握するということの限界のようなものを感じる。というのは、上のことから、例えば犬は神の子と成り得るかと言えば、それは否であり、そのような意味では、人間は「本性からして神と類縁を持っている」ことになるだろう。しかしだからと言って、自動的に神の子とされるわけではない。しかしこの部分も、宣教や修行を行う異教においては、やはりそのように言えるであろう。つまり、結局実は何が問題になっているかというと、それは人間把握なのではなく、やはり神把握なのではないのだろうか。しかしブルトマンは、神把握への直接的なアプローチはすなわち普遍的なアプローチは虚しく、それは遠い神なのであり、そこへのアプローチは、近い神すなわち実存的なアプローチによるしかないという。しかし、もしかしたらそのような状況こそが、むしろ非神話化の遂行による帰結なのではないだろうか。
 聖書の神話的な側面には、もっと他の意図があるのではないだろうか。そしてまた、聖書の神話は単なる神話ではなく、同時に実話だったとしたらどうだろうか。それは次の二つの意味において、すなわちまず聖書の神話こそ人間にとって事実よりも本質的な意味を持つのかもしれないという意味と、もう一つ、聖書の神話が実際に現実世界において生起した現象であったとしたらという意味においてである。
 父なる神さま。あなたの子として聖書を読むことができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第六節 信仰概念

 ブルトマンにとって信仰とは、「神の啓示のもとでの人間の服従」でも「唯一神についての正しい知識」でもなく、また「世界観の一部分」でもない。
 彼は言う。「イエスにとっては信仰とは、生活の特定の瞬間において神の全能の確信を真摯に受け取る力であり、そのような特定の瞬間において神の行為が真に体験されるであろうというたしかさであり、人間がその日常の態度を捨てようと決心し、近きにいます神を目をあたりに見る覚悟を真に持ちさえすれば、遠き神はまことに近き神でいますという確信である」と。
 ブルトマンは、イエスによるこのような信仰概念が、使徒パウロ等のそれと異なっていると言う。しかしそうであろうか。パウロが言うところの信仰の定義、すなわち、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認することである」とは、かなり相通じるところがあるのではないだろうか。
 父なる神さま。常に新しい信仰をお与えください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年10月17日 | トップページ | 2006年10月21日 »