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2006/10/17

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第五節 祈りの信仰

 ブルトマンは、祈りについて次のように言っている。「祈りとは神と語ることであり、ただ神とのみ関わるものなのである。それは祈願者の要求を通すのではなく、神の恵みを乞い求めるのであり、しかもその恵みを私たちは確信してよいのである」と。
 そして、「神の恵みについて語り、それを信頼することのできるのは、ただこの恵みを自分の固有の現実のなかで受け取る意志があり、この恵みに自分の固有の命をゆだねる意志のあるものだけなのである」と。
 ブルトマンにとって祈りは、ある緊張の内にあるものであり、そこはまた「遠い神と近い神」の接点でもある。この「遠い神」すなわち全能の神の前では、私たちにはただすべてに服従することだけが期待されることになる。しかし、イエスによれば、ユダヤ教の神概念と同様に、この遠い神は、人間に把握され得ないものであり、しかし、その「遠い神」はまた同時にイエスという一人の人において「近い神」として私たち一人一人と出会い、会話し給う神なのである。
 ここにおいてブルトマンは言う。「疑い得ないことは、イエスが求めの祈りをすすめる時には、その求めは本来の意味での求めを考えていることである。ということは祈りにおいては神の不変の意志に対する帰依が行われているのではなく、祈りは神を動かし、祈りがなければなし給わないようなことを神がなされるように動かすというのである。」「世界の出来事はイエスの信仰によれば、法則的な必然性にもとづいているのではなく、神の自由な行為にもとづいている。将来の出来事も同じである。そうであればどうして私は神に祈り求めないでいられようか。」
 父なる神さま。ただあなたに向かって祈ることができますように。

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緊張の中の天国

レビ記 第24章

 当時のイスラエルでは、モーセを通して与えられた律法が厳格に守られていた。それは、約束の地を受け継ぐための条件であり、その相続の内容には、物質的なものと共に精神的なものが重要な要素であった。すなわち、彼ら自身が神の聖なる民となることであり、様々な儀式はそれを象徴したものでもあったのである。
 そのような状態の中では、高度な緊張が保たれていた。天国は、この世界においては、高度の緊張感の中で保たれる。それは、この世界の様々な雑音が私たちの前の天国を崩す方向に働くからである。むろん天国自体は壊れない。しかし、私たちと天国の接点が崩れるのである。
 そのために昼夜、神の前に最高のオリーブ油により、灯火が備えられる必要があった。そして、イスラエル12部族を象徴する12の輪型のパン、聖なる香料、これらが会見の幕屋で神の前に捧げられた。
 そこには、神の御名を呪う者の存在する余地は、まったくなかったのである。
 父なる神さま。天国がいつも私たちの心にあるようにしてください。

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