« 2006年10月12日 | トップページ | 2006年10月14日 »

2006/10/13

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第三節 摂理信仰と義神論

 「何を食べようかと命のことで思いわずらうな。何を着ようかと体のことで思いわずらうな。命は食物に、体は着物にまさるではないか。」
 イエスが語ったこのような楽観論と、人が人生において遭遇する様々な苦難や困難の間のギャップは、神学者たちを悩ませてきた。しかしイエスは、次のようにも語った。
 「空の鳥には巣があり、きつねには穴がある。しかし人の子には、枕するところもない。」
 義なる神がおられることを前提とすれば、苦難の意味は信仰により完全に説明できなくてはならない。しかしこれまでどの神学もそれを良く説明してこなかった。「神の沈黙」、それがキリスト教にとっても不可解な事柄であり、古代キリスト教会はこの神義論の問題に苦しみ、時には旧約聖書風の報償思想の助けを借り、また時にはギリシャ的・哲学的な思想の助けを借りてこれを克服しようとしたとブルトマンは指摘する。そして彼によるとイエス自身もその回答を与えてはいない。
 しかしイエスにとっては、それは実は問題ではないのだとブルトマンは言う。むしろイエスにとっては、人間自身に関わり、ありのままの人間の確かさを揺り動かすような問い、つまり人間に対してその状況が終わりの時の状況であり、決断の状況であることを明らかにしてくれるような問いだけが意味を持つというのだ。
 ブルトマンによると、人間にとってはすべての状況が決断の状況であり、それは苦難の状況においても同じであり、そこにおいても人間の意志が要求されているのであり、将来を与えたもう神の意志の肯定において、自分の要求を拒否することが求められているのである。
 従来から「神の沈黙」に対して、キリスト教的な観点から様々な考察が行われてきた。その中には、神の沈黙に遭遇した信仰者が、その状況に躓いて、神を否定し、たとえ彼が踏み絵を踏むようなことがあっても、それは神の前に受け入れられることであると主張する人さえいるようだ。そのことの客観的な妥当性に関する議論は、ここでは置くとしても、少なくともブルトマンは決してそのようには言わないだろうし、彼の神学からは、そのような結論は導き出し得ないであろうということだけはここで指摘しておきたい。
 私が見たところでは、ブルトマンの神学に同調した人が、その勢いにのって福音主義全体を否定し、そこから果てしない倒錯へと発展してしまうケースがあるように思えるのだが。もしそういうことが往々にしてあるとすれば、それはなんと憂慮すべきことだろうか。
 父なる神さま。信仰上の偏見からお守り下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年10月12日 | トップページ | 2006年10月14日 »