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2006/10/11

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第二節 将来の神

 ブルトマンは、イエスの神概念とユダヤ教の共通点を次のように認識する。すなわち、神はイエスにとってユダヤ教の意味での遠き神である。神はどんな意味でも決して世界には属さず、世界の一部ではないと。
 これは、限りなく神秘主義思想に近い考え方である。さらに興味深いのは、彼がこの世界から完全に隔離された見えざる神と人が交わりを持つ道が与えられていると主張することである。それが彼によれば、現実世界の中で、自分の前に置かれた種々の問題、課題に取り組む中で、神の意志に完全に服従しながら真剣に生きること以外にはなく、聖礼典的な洗いが人間を清くするのではなく、ただ清い心、つまり良い意志のみが清くするのだという。
 このようなブルトマンの神把握に出会ったとき、人は二つの反応をするようだ。一つは、今までの自分の信仰における思い上がりや幻想に気付き、神の前に心砕かれて、もう一度自分の信仰を新たにすること。もう一つは、それでは神は存在しないと思い込み、信仰から離れてしまうことである。いずれにしても、ブルトマンに出会った人が、自分の信仰を根本から問い正されて、揺さぶられて、ただそこに振るわれないものだけが残るということは共通しているようだ。
 つまり、ブルトマンを読んで、その非神話化論等々に出会い、神はいないと勘違いして信仰から離れてしまう人に、ブルトマンは責任がないだろう。それは、その人自身の中にあった神との間の関係における問題点が暴露されてきたに過ぎないのだろう。
 しかし、こういうことは言えるだろう。もしかしたら、上のようなことを通して、ブルトマンが本当に、「神は存在しない」と語っているかもしれないということである。しかし千歩譲って、もしそうだとしても、そのことは、ブルトマンがこの世界には神はいないと語っているに過ぎず、神はどこにもいないと語っているのではない。しかしこのことについては、異議がある。というのは、神はこの世界に存在するからである。そう、少なくともブルトマンが主張する仕方で。彼の方法論がこの世界における神との出会い方をはっきり提示している。たとえこの世界に神が存在しなくとも、ブルトマンはその隠れた神との出会いの方法論をはっきり提示しているのである。
 おお、それはまさにイエスその人である。ブルトマンが書きたかったのは、このことなのだろう。「イエス」、この人をおいては、神に出会う道は無い。宗教にも儀式にも、神秘性の中にも、霊的感動の中にも存在しない。ただただ、人間イエスの中に、神は人となり、ご自身を啓示され、人との交わりの道を開かれたのだということだ。
 父なる神さま。イエス・キリストを本当に知ることができますように。

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