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2006/10/09

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第一節 ユダヤ教の神観

 ブルトマンは、この書「イエス」の最終章であるこの章の最初の節でまずユダヤ教の神観について観察し、そこにおいて決定的なことは、神の超世界性、彼岸性の考えと、世界が神に対する関係を持っており、神は世界に心を向けておられるという考えとが共存しているその独自の結合にあると言う。彼はこの概念を「遠くて近き神」と呼ぶ。
 しかし実際には、このユダヤの神観に対して、様々なものが影響を及ぼし、これを不明瞭なものにしていると彼は主張する。それらは、天使や悪魔等様々な空想的な概念、ギリシア・ヘレニズムからの二元論的なもの、そしてユダヤの神観そのものに内包される諸概念の間の緊張関係であるという。
 そしてその結果、人はいつしか瞬間々々において決断的に神に従うことよりも、来るべき審判の日における身の安全の方を気にかけるようになり、その結果功績としての善き業に期待するようになるという。そして彼は更に、このことは、神観そのものの崩壊を意味しているのだと言う。というのは、人の考えが功績を求めることにより、彼の現在における神への服従の決断が鈍って来、そのことがそのまま、また同じユダヤの神観の他の概念から、彼の将来における裁きを意味することになるからである。そしてこのことは結局、人間の罪が真剣に取り扱われていないことなのだとブルトマンは言う。
 ブルトマンはこのように、純粋な信仰を阻害する要因をするどく見抜いてそれを指摘する。そして、このような曖昧性に陥らないために、神を審判者としてとらえ、人間を罪人としてとらえるべきことを主張するのである。すなわち、罪は購われるのではなく、ただ赦されるのみであるということ。たとえキリストを信じても、そこに人格や人間性の向上が期待されているのではなく、期待されているのは、ただただ耐えざる服従の決断のみであるというのである。
 ブルトマンの神学は、私たち福音主義から見ると、一見何の希望もないように見えるかも知れない。しかしそれは、信仰から人為的なものを一切排除し、ただ神のみに希望を置こうという真摯な姿勢なのである。
 しかし再び、神があえて人為的なものを信仰の中に設定されたのだとしたらどうだろう。そして「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神と呼ばれることを良しとし、イエスという有限な一人の人と自ら成られたのだとしたら、もしそれが本当だとしたら、それをあえて信じないことが、神を敬うことになるだろうか。
 父なる神さま。あなたの高い高い思いを教えてください。

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