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2006/10/01

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第八節 神の意志と神の支配到来

 イエスは、神の意志を啓示したという点ではラビであり、終末論を提示したという点では預言者であった。このラビという保守性と預言者という革新性がどのように調和するのか、というのがここの論点である。ブルトマンによれば、この二面性がイエスの宣教を正しく把握するための重要な鍵となる。
 彼はまず従来の神学がこの二面性をどのように理解したかに言及し、その欠点を指摘する。彼によれば、従来の神学がこの並存を統一として理解し得なかったのは根本的には終末論をも倫理をもその究極的決定的意味において理解しないからなのだ。しかし、神の意志が、全的服従と自己主張の断念を要求しているのを理解したときに、この二面性を調和的に理解することができると言う。
 即ち人は、ラビであるイエスの言葉により神の意志を啓示されることで、今決断の中に立たされているということ。そのとき彼の今は彼にとって最後の時であり、そこで預言者イエスの招きに従い、世を棄てて神へと決断することが要求されていて、そのとき、彼の人間としての自己主張は一切沈黙しなくてはならないということなのだという。
さらにブルトマンは言う。「ここで古い人はその処理可能な状態から脱却して他者(神)の支配に入る」と。その決断の結果、「真の将来が彼の前に立つ。そしてそれは、人間が基本的には既に処理しているような偽りの将来ではなく、人に彼がまだ持っていなかった性格を与えるような将来なのである」と。
 このようなブルトマンの信仰への真剣なアプローチというか、彼の宣教は、ある面で正統信仰に勝るとも劣らないほど純粋で、厳しいものである。しかしブルトマンはここでは、そのころ流行していた様々な自由主義的な神学に対して、その欠点を指摘しているのであり、福音主義はこれには該当しないと思う。というのは、主イエスこそが律法の完成者であるという教理が、イエスのラビ的側面と預言者的側面の調和という一点に関しては少なくとも良く説明していると思われるからだ。
 しかしここで問題なのは、福音信仰は、上記の教理により間接的に、ブルトマンが指摘するように、贖罪を客観視する傾向を持つことになり、信徒の教育において赦しのみを強調し、人の側でなすべきこととしての決断と献身を結果的に軽視してきたのではないかということである。
 父なる神さま。あなたが語っておられる声に耳を傾けることができますように。

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