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2006/09/26

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第七節 愛の戒め

 福音派の信徒に「なぜ人を愛さなければならないか」と聞いてみると、殆どの人は、次のように答えるだろう。すなわち、「人は神にかたどって創られた尊い存在だからだ、聖書にあなたは高価で尊いと書いてあるでしょう」と。しかしブルトマンは、これはイエスの提示している愛ではないという。彼にとって、他人を愛せよというのは、単純に神の命令であり、人にはそれに従うかどうかの決断が要請されていると言う。
 つまり、人を愛するのは、人に何か価値があるからではなく、ただただそれが神の命令だからだと言うのだ。そのように、ブルトマンはヒューマニズムを徹底的に否定する。彼にとって「愛」とは、『人が人に対して立つ具体的生状況での、意思の自己超克』なのである。
 彼の言わんとしていることは、たぶん次のようなことだと思う。つまり、もし人に何がしかの価値があるから人を愛すべきだとすると、その場合の価値観というものが存在するはずである。そして、その価値感に従って人の価値が評価される。そして、その価値感というか、あるいは少し譲って人生観でも良いが、とにかくそれに従っているかあるいは近い人は、価値が高く、そうでない人は価値が低いということになる。このような考えが、教会の中にあると、それにより傷つく人や裁かれる人が出て来ることになる。
 しかし、これに対しても反論があり得る。つまり、聖書が言っている「あなたは高価で尊い」とは、何か人がそうなるべき、ある設定された価値感のことを言っているのではなく、すべての人がすでにそうだと言っているのであり、この価値感により、人が高く、あるいは低く評価されることはないと。しかしこの場合の難点は、すべての人が、この聖書が言っているところの自分の価値を認識できる精神状態に至っていないことにある。そこで、そのような人に向かって、「あなたは本当は高価で尊いのですよ」と言った場合、その人がどのような気持ちになるかを十分推定していない可能性がある。そして、この場合、その人にことによると理解できない真理の理解を強要してしまうことにもなりかねない。そして、その結果は、やはりその人が心に傷を追ってしまうか、かえって落胆してしまうかというような結果が想定されてくる。
 ブルトマンは、そのイエス理解において、このような危険を回避するような方法論を展開しているように思う。彼は、人間が置かれている状況と人間自身の力だけにより、神の前に独立した一人の実存として立ち続けるべきことを我々に提起する。それ以上に出ることは、彼にとって、結果として何か人為的な、つまりヒューマニズム的な価値観を設定することとなり、その結果、人を愛するのではなく自分を愛することに陥ってしまう危険性がある。そして、教会の歴史の中における様々な悩みや悪循環は、教理の中に潜むこのヒューマニズム的な要素に、牧会が気付かなかったことに起因するところが大きいのかもしれない。
 それでは、我々はやはり上記のような危険性を排除するために、ブルトマンの非神話化の方法論を全面的に採用すべきなのだろうか。私はそうは思わない。その理由は、イエスご自身がそれを排除されなかったと思うからである。その結果、イエスの弟子たちは、ブルトマン流に言うならば実際、弟子たちは、イエスの宣教内容を大幅に拡張した教理を世界宣教に向けて展開して行った。私は、イエスが神である以上、それを計画されていたと信じる。
 それにしても、ブルトマンは三位一体をどのように考えているのだろうか。ずっとそれが気になっていたのだが。
 父なる神さま。三位一体のあなたを礼拝します。

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