« 2006年9月22日 | トップページ | 2006年9月26日 »

2006/09/25

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第六節 禁欲と世界形成

 「神の意志から世界形成のプログラムは導出されない」とブルトマンは言う。人はこの世界の中で、理想社会を創造する集団の一人として神に出会うのではなく、孤立したただ一人のアダムとして神の前に服従の決断をすることだけを要請されているのだと彼は言いたいのである。
 神がそのようなものであると信じるゆえに、彼はまた次のように言う。すなわち「かくて神自身も神性という思想のもとには観察され得ない。神性のようなものはイエスにとっては全く存在しない。神はイエスにとっては人間を決断の状況におく力、善の要請の中で人に出会う力、人の将来を規定する力なのである。ゆえに神は自立的な神性として客観的に観察されることは全くできない。むしろただ自己の実存の現実的把握の中でのみ人は神をとらえ得るのである。もし人がここに神を見出さないなら、人は神をいかなる性の中にも見出さないであろう。」
 ここには、三位一体の神へのブルトマンの革新的な洞察が提起されているように思う。すなわち、なぜ神が人と成られたのかということについてである。主イエスは言われた、「私を見た者は父なる神を見たのである」と。また、「誰でも私を通らなければ父のみのとに行くことはできない」とも言われた。さらに聖ヨハネは、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである」と言った。これらを真剣に受け取るならば、ブルトマンが何を言いたいのかが分かってくる。
 すなわち、神は主イエスにおいて人となられ、彼の生き方と彼の言葉により私たちに父なる神を解き明かされたのであり、それにより私たちは、父なる神を知るとはどういうことかを知ったのだ。すなわちそれは、従来のように何か奇跡的な現象を見ることにより、恐ろしい神がそこにおられることを感じるのではなく、自分が主イエスに倣って生活することにより、彼の中に自分を見い出すことである。
 しかしここに2つの疑問が提起されてくる。それは、主イエスに倣って生活する者が、自力で完全に自己の満足する生を送れるかということと、三位一体の神がイエスという位格においてご自身を啓示されたのは、ただ言葉においてだけであったのかという点である。特に後者に関しては、聖ヨハネが「言葉は人となり、私たちと共に宿った」と言っているが、神の言葉としてのイエスが人となったのは、ただ言葉を語るのためだけだったのかという意味である。これらについて、この後の章で見ていけたらと思う。
 父なる神さま。主イエスのご生涯の中に、あなたを見る者とならせてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年9月22日 | トップページ | 2006年9月26日 »