« 2006年9月21日 | トップページ | 2006年9月25日 »

2006/09/22

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第五節 要求の理解可能性

 「要求の理解可能性」とは、神の意志を行わんとして生きる人があるとき、その人が神の意志、すなわち彼に対する神の要求を自らの心で十分に理解できるのかということである。
 これに対してブルトマンは、それは可能だと言う。というか彼によると、人は、何が善であり神に喜ばれることなのかを生まれつき知っているのであり、さらにこの理解の前提となるような律法や教理上の知識等が、実は何も期待されていないということによる。つまり、神の国は理想郷ではなく、終末論を背景とした個人ベースの決断がすべてなのであり、これに関しては、人間にとっては、神の前には、服従の決断をする以外には、何も神の国に対して貢献できることはないのである。
 この考えは、キルケゴールが述べたところの「ソクラテス的な無知」の概念に似ている。すなわち、もし或る人が悪いことを行うなら、彼はその行為の意味を理解していなかったのである。つまり、もし彼が自分の行為の本当の意味を理解したなら、彼の良心が彼をして、その行為を行わないようにするであろうという考えであり、その反対に、もし彼の心が良いことを認識するなら、再び彼の良心がそれを彼に行わしめるであろうことが期待されているようだ。
 しかし、キルケゴールがこの「ソクラテス的な無知」の概念を提起したのは、実は人間は、良いことと認識しながらそれを実行に移すことを一時もしくは無期限に遅延させたり、華々しくは、悪いことと知りながらあえてそれを成す者でさえあることを示すためであった。
 しかしブルトマンは再び言うかもしれない。「もしそのようなことがあるなら、それはやはり彼が自分の行為の意味を十分に理解していなかったことを示しているのだ」と。しかしそれでは、けっして亀を追い抜けないウサギのトリックように、追い越すまでの時間内だけをつぶさに調べているようなことにはならないのか。
 この根底には、「罪」というものをどう把握するかということがある。そもそもブルトマンにとって罪とは何なのか。それは、人間が生まれつきにおかれている状況であり、変更の利かないもので、人間は神から罪を赦されるのみの存在ということである。彼によれば人間は永遠に罪の性質から開放されることはなく、ただただそのような状態にあることを赦されることだけが期待される。そしてそれを可能にする条件が、唯一つ終末論を背景とした神への従順の決心、すなわち改心なのである。
 父なる神さま。あなただけが人の心の中で起こっていることをご存知です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年9月21日 | トップページ | 2006年9月25日 »