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2006/09/21

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第四節 イエスの服従要求

 イエスの宣教に関するブルトマンの解釈は、「徹底的に考え抜かれた服従倫理」と言われる。その意味は、ブルトマンによると、かつてのユダヤ教における律法を背景とした民衆の服従倫理が、深い理解を前提としない盲目的な服従であったのに対して、イエスの宣教は、人間の精神の全領域を覆うものであり、人間が本心から宣教の内容、つまり福音に応答することにより、心から進んで神の御心を行う業に参与するようになることだからである。
 これは一見、人にとって大きな重荷となりそうにも思えるが、ブルトマンによればこれが実は、イエスの言う「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」といういわゆる「解放」にあたるのである。というのは、彼が想定しているところの個人としての応答とは、何か一般的な基準の上に立った、ある想定されたレベルに達しなければならないようなものではないのであり、応答の質は個人にゆだねられているからである。
 それにしても、本当にブルトマンが想定しているような服従倫理が期待通り機能するだろうか。全人格的に神の業に参与したと言っても、依然として人間は間違えを起こすものである。それを本人が多数体験するに連れ、自分の改心が実は本物でなかったのではないかとの認識が生じ、その結果、改心前と実は何も状況が変わっていないという思いに陥ってしまう危険性はないのか。
 ブルトマンの提唱する実存的な図式によるアプローチでは、結局は人間の姿勢に全面的に依存する結果となり、移ろいやすい人間の意識状態の中では、人生においていかなる信仰の奇跡も生じ得ないのではないのか、という疑問が起こってくる。
 これについては、この後の章を追って明らかにされていくことに期待したい。
 父なる神さま。すべての人があなたから招かれていることを期待します。

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