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2006/09/20

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第三節 ユダヤ教的服従倫理

 この章でブルトマンは、イエスの宣教の対象となっていた当時のユダヤ人の精神構造について考察している。
 それによると、当時のユダヤ人を支配していたのは、律法を背景とした服従の倫理であった。彼はそれを「民族倫理」と「祭儀的倫理」の二つに分けて論じている。これは、当時のユダヤの律法に、民族の存続を確保するために、その健康や安全を生活習慣から規定する社会的な面と、神を正しく礼拝するための儀式と神の前に個人の罪を処理するための購いを兼ね備えた祭儀的な面があったことに起因する。
 いずれにしても、当時のユダヤ人の心を支配していたのは、律法への徹底した服従倫理であったとブルトマンは言う。そこには、なにかギリシア思想的な理想主義のようなものは存在せず、彼らの価値観は、ただただどのように律法へ服従しているかということにあったということである。
 そのような状況において、ブルトマンによれば、当時のパリサイ人や律法学者たちの多様な律法解釈は、時代が必要としていたものであり、かつてモーセを通して神から律法を授かったときの状況とはかけはなれてしまった当時の社会環境において、律法全体が崩れさらないための、一つの適応手段でもあったとも言えるようだ。
 そしてそのような状況下のユダヤ人らに対してイエスが神の国を宣べ伝えていたのである。ブルトマンによれば、それもまたパリサイ人や律法学者たちが行っていたような、律法解釈の一つであり、それにより、ユダヤの服従倫理が崩壊せずに、新しい可能性を与えられるかもしれないようなものであった。
 しかしその可能性は、ユダヤ民族がそれにより、自律的な民族となり、社会的な何か理想のようなものを打ち立てるというのではなく、与えられるどのような可能性の中においても、それはやはり徹底して服従という範疇に入るものだったのだ。
 私はこの状況は、今日のキリスト教会においても存続していると思う。まだ先を読んでいないので何とも言えないが、きっとブルトマンも正にそれを望んでいるのではないだろうか。というのは、彼が言うように、ユダヤ律法主義をヘレニズム的キリスト教が変質させた可能性があるにしても、それらすべてを貫いて私たちに語りかけて来る何ものかが確かに存在するからである。
 これこそ正に現代の私たちが、イエスに対して持つべき信仰だと思う。すなわち、徹底した服従の信仰である。パウロが言っているように、そのためにすべてを捨てて、それらを糞土のように思うほどの、主イエスへの徹底した愛と従順に基礎づけられた服従、ただそれだけが、この誘惑の多い、多様な価値観の渦巻く社会において、私たちに不動な信仰を与えるのだ。
 父なる神さま。あなたとの不動の関係をお与えください。

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