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2006/09/15

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第二節 聖書の権威

 イエスは、ラビとしての権威で人々に語った。そしてそれはすなわち、聖書の権威で語ることであった。
 イエスは、律法を否定しなかったし、返ってそれを完全に守るべき事を示唆された。しかしキリスト教は、その後異邦人に福音を宣べ伝えるに及んでこの律法を軽視するようになったとブルトマンは言う。或いは、単に一時的な処置だったのかも知れないこの取り扱いが、いつしかキリスト教の中心的な教理の一部となったのか、それともそれはイエスの宣教の中に、つまり律法理解の中に含まれていたのか。ブルトマンはここでは、それについての断定的な言及を避けているようだ。
 しかしはっきりと言えることは、彼が、イエスがまず律法の伝統的な解釈を拡張し、さらに原始キリスト教団がそれを骨抜きにしたと考えていることだ。ブルトマンによれば、キリスト教信仰は、伝統的なユダヤ教の信仰をギリシアの哲学思想を素材に改変し、つじつまを合わせたもののように思われてくる。そして、今日のキリスト教会の生温い信仰は、このつじつま合わせから生じて来ていると言いたいかのようである。
 このような意見に断固として意義を唱える人は、たぶんたくさんいるであろう。しかし問題は、それが間違っていると証明できないことである。そればかりか、一般のキリスト信者でない人の公平な目でみたときには、どうもブルトマンに軍配が上がってしまう可能性が高いということである。
 そもそも未信者との議論の中にすぐに聖書のパッセージを持ち出し、その陰に身を隠すような人は、上記のような危機感を持ったことのない「幸福な信徒」と言えるだろう。しかし、キリストが当時の下層の人々と交流され、その一人であるペテロの足をさえ洗われたことを思い出す必要がある。
 いずれにしても、正統信仰を貫くなら、実生活の中で、一般の人々の前に神の臨在を提示する以外にないと思う。
 父なる神さま。私たちがどのように考え、どのように振舞おうとも、あなたは永遠から永遠まで存在されるお方です。

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