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2006/09/14

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第一節 ラビとしてのイエス

 イエス・キリストもラビと言われるユダヤ教の教師であったとブルトマンは指摘する。もしそうなら、イエスは、しかるべき研鑽を積んで教師の試験に合格したとも考えられる。
 そこで聖書に「イエスは、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように語られた。」とあるのが理解できる。彼はラビとしての権威で語られたのだろう。しかしイエスは、この権威を決して振り回すことがなく、返って身分の低い人々と積極的に交流された。そればかりでなく、ラビとしての自分の弟子に、そのような人々を起用されたのである。
 このことからも、ブルトマンが言うように、イエスの宣教が終末論的であったことが言える。というのは、そのような弟子たちからは、次なるレビ、すなわちイエスの権威を引き継ぐような次代のレビは起こり得なかっただろうから。したがって神の国は、イエスが生きている間に見える形で到来するはずであった。しかし実際は、期待された神の国は到来せず、終末論的な共同体が歴史的な現象となったことを認めざるを得ない状況となり、その結果キリスト教信仰が新しい宗教の形をとるに至ったとブルトマンは主張する。
 しかし彼らはその後、「あなた方は私のしている業を行うだろう」とのイエスの言葉通りに、イエスの宣教を引き継ぎ、それをさらに発展させることになった。神の国は、たしかに文字どおりには到来しなかった。しかしそのことで原始キリスト教が消えてなくなってしまうことはなかった。
 この原始キリスト教史とイエスの終末論的な宣教の間には、確かに不可解な断絶がある。そしてその断絶は、弟子たちが原始キリスト教を創造したのだと考えることにより、さらに際だって来るように思える。というのは、もしあえてそのように考えるのなら、この断絶も彼ら弟子たちの産物と思えてくるからだ。むしろ、神の国が文字どおりに来ないのは、予見されていたのではなかったのか。
 父なる神さま、事実を事実として受け取る中であなたの御声を待つ勇気を与えてください。

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