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2006/09/05

恵みとしての律法

レビ記 第17章

 神はモーセを通して、イスラエルの民に、動物の血を食べることを禁止された。
 なぜ血を食べてはいけないのか。それは、やはり第15章における流出に関する規定と同様に、天上の雛形における法則によるのだろう。それは明らかに、殺された動物に触れた場合の汚れと関係がある。
 神の律法は、その解釈において、往々にしてそれを破る行為自体に視点が置かれるが、実はそれを破る者の意識にもっと力点が置かれるべきではないのか。というのは、罪とは神に背を向ける意識状態とも言えそうだから。また、人の罪のために神が何か代償を必要としておられるとも思えない。もしそうなら、主イエスにおいて、神ご自身の側からそれが一方的に提供されるということもなかっただろう。
 つまり、律法さえも人間に悔い改めを可能とする意識状態を作り出すために、神が設定された配慮の恵みであるというのが私の考えだ。
 父なる神さま。あなたの心の大きさを教えてください。

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神との謁見

レビ記 第16章

 アロンの二人の息子が、定められたものでない火を主の前に捧げて死んだ後、神はモーセを通してアロンに購いの座の前で行うべき購いの儀式の方法を提示された。アロンが神の前に死ぬことがないためである。
 神は、臨在の雲の中に、購いの座の上に現れると言われた。この購いの座は、外界から何重もの分厚い幕により仕切られた特別な空間であり、神はこの空間をご自分がこの世界に姿を現す唯一の場所とされたのだった。
 アロンがもしこの神の臨在が満ちた空間に何の準備もなしに入るならば、彼は死を免れることはできない。そこで、彼が購いの座の前に出るときには、彼と購いの座に現れる神の臨在との間を隔てる何かがそこに造られなければならない。それには、清い動物の命が捧げられることが必要であり、それによりそこにアロン自身のための購いが実現され、彼が神の顔を直接見ることが無いような護りが確保される。それは、あたかもあのエリヤやモーセを取り囲み、神の濃密な臨在から防ぎ護ったあの神の手、一つの場所のようなものであろう。
 この大いなる危険性とそれからの回避システムは、神に直接犠牲が捧げられるときにそこに発生すべきものである。つまりこの場合、危険とはアロンが直接神を見るということである。そして、祭司が神に犠牲を捧げるときに、そのような危険が伴うのである。
 なぜそのような危険を犯すことが必要だったのか。それは、動物自身が自分の命をを捧げる能力を持たないため、儀式を執り行う人間が必要となるからである。もし高度な知能を持ち、犠牲の意味を理解し、自ら儀式を行える動物が存在したなら、アロンは危険を犯す必要がなく、罪の購いは安全に遂行されただろう。
 しかしそもそも何故に神は、人にそのような血生臭い儀式を要求されたのだろうか。それは、神の側の怒りやこだわり、意地、執着等ではなく、罪の性質そのものに起因するものだろう。つまり、罪は、一方的に赦されることの不可能なものであり、赦す側と赦される側の双方の関係の中で、人間の側に儀式という購いのプロセスを行わせられる神の意図が理解されるべきなのだ。とにかく、罪の購いは、人間の深層心理の解放とそれに続く万物の更新にまで至る、宇宙的なプロセスと考えられるのである。
 この購いのシステムは、神の御子イエス・キリストの十字架とその宣教により完成した。イエス・キリストは、自ら購いの動物、しかも完全なる捧げ者となり、その宣教と結びついた完全な購いのシステムを実現されたのである。その新しいシステムでは、二度と動物の犠牲が捧げられることはなく、このシステムにおける祭司としての人は、もはや神の顔を見ることにより、自らに死を招くこともない。彼は、与えられる御霊の助けにより、イエス・キリストの生涯を歩み、彼を通して完全な生涯としての人生を捧げ、主が父なる神を見ておられたゆえに、彼の人生が父なる神を安全に見るものとされるのだ。それは、彼が父なる神の実子となるためであり、主イエスが「私を見た者は父を見たのだ」と言われた通りである。
 父なる神さま。主イエスに倣うことがあなたを見ることであることを教えてください。

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