« 2006年7月24日 | トップページ | 2006年7月27日 »

2006/07/26

「イエス」:第二章 イエスの宣教・神の支配の到来 第四節 将来と現在・決断の状況

 「人間の理想という概念」、「人間の素質の展開という思想」、「人間それ自体にある価値という概念」、「心魂という現代的観念」、これら一切は、イエスの宣教には全く欠けているとブルトマンは言う。
 彼は、イエスの言葉から人が想像するどんな甘美な幻想をも徹底して排除しようとする。それは、首尾一貫していて気持ちが良いほどである。しかしその理念は、今まで私たちが慣れ育ってきた環境とは、なんと異なっているように思えることだろう。果たしてどれだけの人が彼の考えについて行けるだろうか。それに対して、イエスにはたくさんの雑多な人々が従っていたのではなかったのか。
 しかし、彼らも十字架と共にイエスに躓いてしまったのだった。十字架という「死」を越えて従った者たちだけが真に主イエスに従った人たちなのだとブルトマンは言いたいのだろう。たとえ彼の神学に十字架が含まれていなくとも、そのような運びに成り得るのではないだろうか。
 彼は「神の支配は、真の将来なのだ」という。そしてこの「真の将来」は、人間に決断を強制することにより現在を全面的に規定する。もう一つ現在を規定するものがある。「死」である。ブルトマンは、イエスの終末論的告知、神の支配到来の宣教と悔い改めの呼びかけとは、その根底になっている人間把握について考えるときにのみ理解されると言う。死という万人が逃れられない将来によって全面的に規定されながら、その不運な運命を克服する道が提示されている、しかもそれは、自己の意思による自由な決断により、見捨てられた者という生来の運命から、それと並行する選ばれた者という希望の運命へ、現在という特異点を通じて跳躍する可能性を持つ者というのがブルトマンの人間把握であろう。そして、これ以外のあらゆる表象は、この人間把握を曖昧にする方向に働くゆえに、神話であり、有害であるというのである。
 このブルトマンのアプローチから、どのような宣教メッセージが期待されるだろうか。それは意外にも穏やかでオーソドックスなものであり得るのかも知れない。しかし問題は、このアプローチが彼の意図通り、信仰者を党派心や人間中心主義、教理の歪曲、他宗教との混合等々から守るだろうかということである。
 私は、それは必ずしも期待できないのではないかと思う。というのは例えば、ブルトマンの神学が提唱しているところの聖書の非神話化により切り捨てられる部分には、彼の言う通り、地獄における永遠の刑罰も含まれるのだが、このことが信仰者の人生を主イエスに対する態度において曖昧なものにする可能性がないとも言えない。実際、この教理を切り捨てた新興宗教による弊害は、福音主義教会では、深刻な問題になっている。また、ブルトマンの非神話化を論じながら、自ら仏教との橋渡しを演じる人もいるようだし、主イエスが十字架上で購ってくださった罪には、「信仰の躓き」まで含まれると断言する人もいる。これでは、何のためにブルトマンが聖書から、誰も疑いようのない主イエスの言葉を細心の注意を払って抽出したのか分からなくなってしまうだろう。
 要するに、すべては主イエスにおいて父なる神ををいかに愛しているかということに帰結するのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年7月24日 | トップページ | 2006年7月27日 »