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2006/07/24

「イエス」:第二章 イエスの宣教・神の支配の到来 第三節 普遍主義か個人主義か・二元論か厭世主義か

 ここには、ブルトマンがこの書を通して言いたいことがはっきりと提示されているようだ。それは、福音主義が陥り勝ちな、安穏とした赦しのみに彩られた宣教への警戒でもあるのだろう。
 この現代の福音の中の安穏的傾向は、信仰者の持つ背景により、様々な形態をとって現れる。例えば、人間主義的な背景からは、人生の苦悩がもたらす人間の迷いやわがままの過度な受容と肯定が想定される。それが教理における妥協を通じて、新普遍救済主義的傾向へ向かうことになるのかもしれない。また神秘主義的背景からは、ブルトマンが言っているように、体験的信仰の強調、内面性への沈潜、肉体と霊の二元論等々への誘いとなる。倫理的背景からは、修行やある種の悟り、人格の完成等々への要求ともなる。
 ブルトマンは、これらへの徹底した警戒を説いているのだ。それでは彼は、どんな偏狭性からも自由なのだろうか。いや、彼が寄って立っているところこそ、まさにこの一つの偏狭性に他ならない。それは、イエスと原始キリスト教団の宣教(ケリュグマ)である。ブルトマンの意図は、決して普遍的な信仰とか神学のようなものを打ち立てることではない。彼が提示しているのは、あくまで方法論であり、それは、イエスという歴史上の出来事に我々の心を向かわせ、素手で対決させるためのものなのである。そして、彼の意図がこの徹底した言わば方法論にあることから、まさに彼はどのような神学の偏狭性に陥ることからも自由なのである。
 彼の提示していることは、このケリュグマという偏狭性の中に、全能の神からの啓示があるが、それは文書でもなければ人生訓や教訓でもあり得ない。人がそれを理解し、その祝福を享受するためには、ただ彼の意思がこの宣教より変革され、この宣教の説いているところの人生が彼の人生となり、それに参与することによるのである。
 これについて、神秘主義は、福音主義は、正統信仰は、何と意見を述べるだろうか。しかり、「我々もまったく同じだ」と叫ぶに違いない。この「同じだ」の「同じ」という意味が何か異なるのだろう。そして、この「同じ」の中の「相違」が何なのかを今後この研究を通じて良く考えて行きたいと思う。

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