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2006/07/19

「イエス」:第一章 イエスの活動の時代史的環境 第三節 洗礼者ヨハネとイエス

 洗礼者ヨハネとイエスは、共に洗礼派に属し、イエスはヨハネの派から分かれたのだとブルトマンは主張する。しかし「洗礼派」とはいったい何なのか。ブルトマンは、その起源についていろいろと考察しているが、詳しいことは何も分からない。要するに、キリスト教成立の時代に、この「洗礼」という奇異な儀式を執り行う宗教の一派が起こっていたということである。
 しかし彼が特に注目するのは、洗礼と終末論の関係である。つまり、「終末の時が近づいた」といことの結果として「洗礼」という儀式とそれを受けた証しとして求められる「悔い改めた生活」は、古くからユダヤでも行われていた清めの儀式としての「洗身」とは異なるものであり、それはむしろ「メシア運動」に由来するものだと彼は言う。そして結論としては、イエスの宣教は、この「メシア運動」だったということである。そして、イエスがメシア運動の一人の指導者ならば、洗礼者ヨハネもまさにそうなのだ。そして、彼らは同じ派に属し、イエスはヨハネの宗派から分かれたというのである。
 このイエスの宣教がメシア運動であったとするブルトマンの徹底した主張は、彼の神学にとって決定的な要素だと思う。もしこの一点が崩れたら大変なことになってしまうようにも思える。しかしそうではない。もともとブルトマンは、ある意味でイエスの宣教がメシア運動であるという過程のもとに神学を展開しているのだ。そして、あえてこのある意味で非常に束縛されたというか、限定された領域の中でのみ神学を展開しているのだ。その理由は、この領域の外には、何も見るべきものがないというか、信頼できるものがないからという理由と、もう一つさらに大きな理由としては、この限定された領域の中にこそ、キリスト教のすべての宝というか要素が豊かに含まれているから。そして、さらに付加的な理由を挙げるとすれば、この領域の外の情報には、もしかしたら良いものが含まれるかもしれないが、実際は、それにより、人間が迷わされてしまうことの方が多かったということである。
 このように言うと、伝統的な信仰の方々からは、ああ、このブログの作者も、ついにブルトマンに染まってしまったと思われるかもしれないが、決してそうではない。私自身は、決してそのように考えてはいない。そして厳密には、これらのことからは、ブルトマン自身も果たしてそのように考えているかどうかは、分からないのである。

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「イエス」:第一章 イエスの活動の時代史的環境 第二節 メシア運動

 「メシア運動」とは、不可思議な言葉に思える。それは、ブルトマンが言うところのユダヤ人の伝統的な「希望と服従」に裏打ちされた信仰からは、とても帰結しようのないもののように思われるから。それは、ブルトマンの言う意味に即すれば、むしろ「ムーブメント」と言えると思う。政治でも思想でもない何か、それが伝統的なユダヤ人の信仰と結合して、彼らを一つの流れのなかにおいていたのである。
 しかしブルトマンがここでメシア運動に言及している意図は、イエスの公生涯も外目、特にローマ人の目にはメシア運動の一つと映ったということであり、従って、あるいは、たとえそうでなかったとしても、それは現象的には、メシア運動そのものであったということなのだろう。
 そして百歩譲って、イエスの公生涯全体が、本当に単なるメシア運動であったとしても、イエスの言葉と宣教は、いささかも傷つけられることはないのだとブルトマンは言うのである。

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