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2006/07/18

「イエス」:第一章 イエスの活動の時代史的環境 第一節 ユダヤ教

 ブルトマンはこの書において、イエスの言葉を様々な角度から分析することにより、読者をイエスという歴史上のできごとに出会わせようとしているわけである。そして彼は、まずその前にこの第一章において、イエスが活動し、語った言葉の歴史的な背景として、そのころのユダヤ世界の状況について、「ユダヤ教」、「メシア運動」、「洗礼者ヨハネとイエス」という3つの観点から整理しており、第一節がこの「ユダヤ教」についての論述である。
 彼は、イスラエル人が非常に特殊な民族であることを認識する。ただ彼は、その原因として、旧約聖書に書かれているエジプトでの奴隷時代とその後の荒野での流浪生活を持ち出すことはしない。歴史学で証明できないことを彼は決して持ち出さない。だから彼によれば、イスラエル民族がそのような状態であったのは、ただただ不可解というか、そのようなことも有り得るだろうという範囲なのだろう。
 それにしても彼が指摘しているように、「強靱な生活力」、「力強い自然的本能」、「最高の道徳的エネルギー」、「鋭敏極まる知的能力」を持っておりながら、律法と約束に支配され、服従と希望に心を満たされた民、その類希な特徴の背景には、また類希な神への信仰がある。
 この神は、民をまったくほしいままに支配し、どんな合理的な法にも束縛されない。しかも、感覚的様相を全然持たず、専主的野望とは一切無縁で、正義と公正を求め、罪を罰し、父が長子を愛するように民を愛する神、敬虔な人は、父を呼ぶように呼び求め、どんな場合でもその助けを期待することのできる神なのだ。このような神が他にあるだろうか。イエスが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」と言ったのは、まさにこの神なのであり、しかしその神は、主イエスが初めて明らかにした神ではなく、ユダヤ人の古来からの神であったのだ。
 この類稀な神に相対する民族は、再び必然的に類稀な民族、すなわち選民となる。それは、いわゆる高慢ではなく、聖いということである。そしてその力は、希望と服従である。そして、この二つの力が選民に焦点を結ぶとき、それはメシア願望となり、選民自身ではなく、この世界の人間に焦点を結ぶとき、それは、熱烈な行動主義となって現れ、それはユダヤ民族にとっての危機ともなったのだった。

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