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2006/07/17

「イエス」:序論 観察の仕方

 ここに提示されている方法論は、一見唯物史観的なものに見える。なぜならそれは、聖書の提示する「見えるものは見えないものからできた」という考え方とは、相反するもののようであるから。しかし、ブルトマンは、ここでその方法論を信仰の先鋭化のために用いようとしているのだ。つまり「見えないもの」を無理に見ようとして、得体の知れない横道に迷い込むことのないように、あえて「見えないもの」を見ようとすること無しに、信仰の道を進もうとしているのだ。
 ブルトマンは、人間という実存自身が歴史の構成要素でもあり、したがって歴史を外側から客観的に観察することはできず、それとの出会いは、ただ対話によってのみ可能であると言う。しかし正当信仰は、かく言うであろう。すなわち、我々は歴史の構成要素であると共に、我々がその中に住んでいるところの自然自体の構成要素でもある(例えば、月の満ち欠けが体調や感情に及ぼす影響等を始めとする一連の解明されていない不可思議なことなども、不本意ではあるが、このことの示唆にはなるかもしれない)のだから、歴史上のある一点においてすら、この世界を客観的に眺めることはできない。従って、この世界と主体的に対話することは、不可能なのであり、我々は、ただ啓示によってのみ、真理を知る可能性を与えられるのだと。これに対して、ブルトマンは、世界が存在することを信じるのは、自分が存在すると信じることを通してのみ可能なのであり、実存の諸可能性は、歴史との対話を通じて初めて解明されると言う。
 ブルトマンが言うところの「対話」は、実存と普遍が出会うところと言えよう。私は、ブルトマンが普遍という概念やその存在自体を否定しているとは思えない。ただ、それとの出会いとそれに関する知識の獲得が文字通りには困難であると考えているのだろう。
 真理へのアプローチにおけるこのような多様性は、収束することがないだろう。そしてそれらは、どれも絶対的なものではなく、どれかを選択せざるを得ないのだが、ある方法論を選択すれば、他の方法論とのコミュニケーションが遮断されてしまうようなものに思える。
 そこで、このブルトマン研究においては、できうる限りブルトマンに忠実に議論する必要がある。それを抜きにしては、ブルトマンを研究することにはならないから。そしてそれは、イエスという人格や、その教えの体系等ではなく、イエスが語った言葉に素手でアプローチし、それが私にどのようなメッセージを語り、どのような課題を提示し、どのような選択を迫っているかということのみを真剣に考察することになるのだろう。

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