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2006/07/16

ブルトマン研究の趣旨

 ブルトマンは、私たち福音派教会においては、何かこう言語道断というかタブーというか、いわゆる聖書の言葉を何かめちゃくちゃに解釈する者のように見なされてきたようだ。本来豊かであるはずの聖書から彼が、様式史的研究かなんかの手法により、信頼できないと見なされる言葉をすべて削除して行った結果、ついに聖書は、ごく薄っぺらな小冊子に過ぎなくなってしまったと聞いたことがある。
 多くのクリスチャンからそのように見なされてきたブルトマンをどうしてこのブログで取り上げようと思ったのか。それは、あることをきっかけにして、もう一度彼の神学の沿革を読んでみて、「非神話化」と呼ばれ、ある人々からは毒物のようにも見なされてきたその神学に取り組む彼の姿勢の中に、ある種非常に真摯なものを発見し、またそれが目指すところの理想にも、何か純粋で魅力ある要素を見い出すに至ったからであった。
 まあ何はともあれ、私は、大いなる感激と喜びをもって、書店で彼の有名な著作「イエス」の日本語訳を購入し、初めて聖霊のバプテスマを受けて聖書の真理に目が開かれた時にも似て、その書を大切に小脇に抱えて、いそいそと家に持ち帰ったのであった。
 そこで、このブログにおける彼についての研究方針であるが、私はこの神学については、やはり特別な取り扱いをせざるを得ないと思っている。と言ってもそれは、例えば彼の著書「イエス」を例にとると、それを私が聖書を解釈するのと同じやり方で取り扱うということにおいて「特殊な」ということなのである。つまり、このブログにおける、聖書をも含めた他の文書を取り扱うのと同じ方法によって取り扱うということである。そして、このことがブルトマン研究の姿勢としては、まさに特殊ということになるだろう。
 正当派と言われるキリスト教派の中には、ブルトマンはだめでもバルトは良しとする派も少なくない。ブルトマンとバルトは、終生仲良しであったらしいが、互いの神学には、決して合い入れない要素もあったと思われる。ブルトマンの展開する神学を見て、バルトは、ブルトマン自身もそのような実存論的な図式で考えているのではないかと心配したということである。このことからブルトマンの神学的手法を用いることとそれ自身を文字どおり信じることは、その是非は別にして、まったく異なるというか、はっきり区別されるべきことなのだろう。
 彼の神学の意図も、特に著書「イエス」について言えば、主イエスの言葉の中に、何か人類に普遍的な真理を見いだすことよりも、それを聞いた者が、それぞれの歴史上の立場において、自分なりにそれを真剣に受け止め、考え、道を選択することにあるように見えるのである。
 そのようなことならば、私が例えば彼の著書「イエス」を読み、それをブルトマンが私という実存に向けて発した問題提起と受け取り、それに対して私なりの立場(つまりこのブログの作者)から、それを聖書か何かを取り扱うようにして、そこに含まれる主イエスの言葉とそれらの配置関係等から、私がこれまで自分の内部に蓄積してきたところの神の知識との関係で、種々の考察をすることもあるいは赦されるのではないか。そして、そのような自由な考察の中から、自分に有益であり、そしてもしかしたら、私に似た考え方をする一部の方々の参考にでもなれば幸と思った。
 それに、この対処方法から、何かおもしろい意味のあることが得られることが分かれば、それは、私がこのブログを通じて間接的にではあるが、一貫して貫きもし、また提示して来た、神の言葉としての聖書の解釈とそこからのメッセージングの方法論の中にも、またなにがしかの真理が含まれていたことの証しとなるかもしれないから。

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