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2006/07/08

消費としての捧げ物

レビ記 第6章

 人が盗みをしたり、偽証したり、その他様々な正しくないことを行った場合、彼の罪のために祭壇に焼き尽くす捧げ者がささげられた。
 それらは祭壇の上で燃やして煙にされ、残った灰は宿栄のそとの清い場所に捨てられた。
 「焼き尽くす捧げ物」、それは我々には、大いなる浪費にも見える。それは、毎日、昼夜捧げられ、祭壇の火は絶やしてはならなかった。そのような浪費を神が要求したのである。
 しかし、私たちの生活には浪費はないであろうか。否、むしろ私たちが朝起きた時から大いなる浪費生活が始まるのではないだろうか。毎日読む新聞、その紙面のどれだけが生活に必要なものだろう。週刊誌や映画、テレビ、今流行のシリコンプレーヤ、マイカー、携帯電話、その他おびただしい数のエネルギーを消費する物また物。それらに取り囲まれ、それらにエネルギーを注ぎ込まなければ、私たちの生活は動いて行かなくなっている。それに比べたら、神の要求されている一見浪費にも見える行為の必要性には、大いなる根拠が存在する。いや、それは決して浪費などではなく、それ以外の形態はあり得ないほど儀式として洗練されたものなのだ。
 私たちは、神のために自らを浪費しなければならない。私たちの生活の中のおいしい部分、楽しい部分を神のために浪費する必要がある。私たちがあえてそれを行うとき、私たちの心と体は、レビ記に書かれているような、清い聖なる捧げ物となり、天地が創られてからこのかたの最大の浪費であるところのキリストの受難を通して、神の御心にかなうものとなるのだ。
 父なる神さま。あなたとあなたの御業のために、私自身を浪費することができますように。

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