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2006/07/07

罪と罰

レビ記 第5章

 もし人が何かについて証言すべきときに正しい証言をしなかったり、また汚れた動物や他人の汚れ等に誤って触れた場合、その人がそのことを知るに至ったとき、彼は罪に定められられるという。
 特徴的なことは、彼が自分の罪を自覚した段階で初めて罪に定められるということだ。これは、私たちの常識、特に日本人のそれとは、かなり異なっているのではないだろうか。
 私たちの常識では、罪は自覚されることこそが重要であり、彼がそれを自覚しさえすれば、後は彼自身の問題であり、他人がどうこう言うべきことではない、という意識が大勢を占めているように思われることがある。
 つまり、罪は、無関心、無自覚、あるいは無感覚かそのような、つまりは取るに足らないことから始まるのであるという考えである。そして、人間そのものには、常識というものがあり、この都合の良い安全機構により、罪の自覚以後は、すべてが何となくうまく運ぶようにできているという考えである。しかし、本当にそうであろうか。
 聖書は、レビ記を通してそのような考えとは真っ向から対立している。つまり、彼が自分の罪を自覚して、「ああ悪いことをしてしまった」と思ったとすると、日本人は、それでもう良いとし、後は彼自身の問題であるとする。しかし聖書は、「それでは、私は彼に正にそのことによって罰を与えよう」というのである。
 私も子育てにおいて、できるだけそのように振る舞ってきたが、そのことで家内との間で、意見の対立を免れなかった。つまり、すでに反省している者に、さらに罰を与えようと言うのは酷だというのである。ここに「罰」というものの意味というか目的における大きな相違が存在することが理解される。
 つまり、私たちの一般的には、「罰」は、罪を自覚させるために課されるのであり、その意味からすると、すでに反省している者には、もはや罰を課する必要はないことになる。しかし、聖書の考えはこれと全くことなる。すなわち、罰は罪に対する報酬であり、反省とは関係しないということである。ここに人間中心か神中心かが問われているのであり、私たちが世間一般の基準で罪を取り扱うなら、そのとき私たちは、人間中心の考え方を実践していることになる。
 私の子育てにおける確信は、彼らが犯す日常の小さな失敗という罪に対して、その罪の報酬としての罰を子供にしっかりと印象付けるべきだという ことである。きちんと処理されずに、うやむやに赦され、闇へと葬り去られた罪が、子供たちの価値観形成にどれほど深刻な影響を与えていることだろう。
 むしろこの小さな軽い罰を自分の身に引き受けることと引き替えに、彼らが聖書の真理を身を持って体験できるのであり、罪の究極的な報酬が死であり、その赦しは、血を流すことなしにはあり得ないのであり、それらのことを通して初めてキリストの十字架こそが私たちの唯一の救いであるということを彼らが真に理解できるようになると思うのである。
 父なる神さま。日常生活の小さなことについて、あなたに忠実になれますように。

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