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2006/07/05

レビ記の象徴

レビ記 第4章

 罪のための捧げものは、傷のない動物を捧げる。彼は、定められた動物を会見の幕屋まで引いて行き、自分の手を動物の頭に手を置く。それは、彼が自分の罪をその動物に負わせることを意味する。その行為により、その動物は彼の犯した罪を彼の代わりに負うことになる。彼は、自らの手でその動物を一撃の元に殺す。祭司は、その動物を受け取り、それから血を抜き取って、会見の幕屋の至聖所を隔てる垂れ幕の前でその血に指を浸して7度振りまき、また祭壇の四隅の角に付け、残りを祭壇の基に注ぐ。
 犠牲として捧げるべき動物は、罪をあがなわれる者が誰かにより、雄牛、山羊、子羊、雄の山羊、雌の山羊になる。この章では、油注がれた祭司の場合、イスラエルの会衆の場合、支配者の場合、一般人の場合と分けて記述されている。この順番に意味があるのなら、「イスラエルの会衆」という集団に重点が置かれており、運命共同体というような意識があったことが注目される。主イエスは、個々人の罪をあがなう前に、イスラエル民族を罪から解放するために来られたのであった。
 捧げられるそれぞれの動物は、神の小羊なる主イエス・キリストを指し示しているのであり、抜き取られた血には動物の命が宿っている。また内蔵を被う脂肪と腎臓は祭壇で燃やされて香ばしい香りとして神の前にたち昇る。
 レビ記には、祭儀に関する膨大な情報が記されているように思える。神はどのような目的でそれらを書き留めさせたのであろうか。私たちが今日レビ記を読む意義は、どこにあるのだろうか。
 私は考える。もしレビ記がなかったなら、ヘブル人への手紙に提示されているようなキリストの受難に関するパウロの解釈は、根拠あるものとなり得るだろうか。つまりキリストの十字架が私たちの救いであり、その保証でもあるということが言えるだろうか。それは、キリスト時代のヘブル人に対してはあるいは可能かもしれないが、今日の我々にとっては、不可能なことだろう。
 つまり神は、キリストの十字架の真の意味を私たちに教えるためにレビ記を記させたのだと思う。レビ記を読むとき、私たちはもはや信仰の友から教えられてキリストの贖罪を信じるのではなく、聖霊から直接教えられて信じるのである。
 父なる神様。レビ記に秘められた、あなたからの宝を心の目で見ることができますように。

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