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2006/06/22

聖なる火

レビ記 第3章

 「平和の捧げもの」には、牛、小羊、山羊が用いられた。それを捧げようとするものは、会見の天幕の前で、その動物の頭に彼の手をおき、その動物を殺す。祭司は、その血を抜き取って祭壇の四隅に注ぎ、脂肪をすべて取り除き、祭壇で燃やさなければならなかった。血と脂肪は共に、神の民が食べてはならないものとされた。
 人が日々犯す罪のための備えものと同様に、神との平和を維持するためにも、清い動物の血が流される必要があった。
 私たちは、日々の生活において、たとえ自覚されるような罪を犯していなくても、神との関係を維持するために、犠牲が必要なのだ。「人の考えることは、生まれつきみな悪いからだ。」(伝道の書より)しかし、私たちの罪のためには、神の右に御子イエス・キリストがおられる。彼は、私たちの罪のための永遠の完全な犠牲の捧げものである。
 私たちが主イエス・キリストの十字架の購いが自分の罪のためであると信じ、彼の死と等しくなるまでに、自分の生涯を空しいものとし、彼に生涯つかえることを願って自身を神に捧げるならば、彼の罪は祭壇で焼かれる脂肪のように聖なる火によって清められ、主のために役立つ人生となるだろう。
 父なる神さま。聖なる火、聖霊によって私たちの生涯を清めてください。

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穀物の捧げもの

レビ記 第2章

 捧げものとしての穀物には、オリーブ油を注ぎ、香料を混ぜて捧げることになっていた。聖書においては、油は聖霊を象徴することが多く、また香料は塩と同様に、神の言葉を意味するのかもしれない。それは、自然から収穫されたものに、神からの聖なるご性質を注いでいただき、聖いものにすることを表しているのだと思う。
 私は、レビ記全体を通して、捧げものは、私たち自身を表していると信じる。だから私たちも、自然から生まれたままの身心では、神の前に受け入れられない。心に聖霊を注いでいただき、日々神の言葉聖書で味をつけられる必要がある。そうすれば、私たちの人生は、神に受け入れられるものになる。
 穀物の捧げものには、粉そのものの他に、オーブンで焼いたたものもある。しかしそれは、パン種を入れずに焼いたものでなければならなかった。私たちの人生にも、人為的な混ぜものは好ましくない。それは一見歯ざわりが良く、人生を豊かに見せるかもしれないが、神の目には好ましいものではないのだ。
 アロンとその子らは、祭司としてそれらの捧げものを受け取り、一部を祭壇で燃やして灰にする。そして残りは自分たちが受け取る。神の祭司が受け取るものは、常に清いものでなければならない。もし彼がこの世界の清くないものを受けるなら、彼はもはや神に仕えることはできない。イエス・キリストを信じて、神の子つまり自分の体なる神殿の祭司とされた私たちも同様である。
 父なる神さま。私たちをこの心身と宇宙の祭司としてください。

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十字架の犠牲

レビ記 第1章

 この時代には、神の前に「犠牲」というものが捧げられていた。それは、人が日々犯す罪の為に、神の前に購いをするためのものであった。
 犠牲には、傷のない動物が用いられた。それは通常、飼い主が愛情を込めて育てていたものである。野獣の襲撃から体を張って守り、毎日の餌や囲いの中の掃除、健康衛生管理等々の結実を神の前に持っていくということである。
 衝撃的に思えることは、それらの動物を自ら殺すことが求められていることである。自分の愛する動物の頭に彼が手を乗せたとき、何を考えただろうか。その優しい目で自分を見つめ返す動物に、今正に自分は自分の罪を代わりに負わせて、自分の手で殺そうとしているのだから。
 神は、そのようなお方なのである。私たちは、この儀式から目を背けてはならない。彼らが目を背けることができなかったのなら、なおさらである。もし目を背けるなら、私たちは、主イエス・キリストの十字架から目を背けることになる。そしてそれはまた、彼を通して現された神の愛から目を背けることになるのである。
 父なる神さま。これからレビ記を読もうとする私を、啓示により導いてください。

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