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2006/05/18

神の臨在と主権

出エジプト記 第33章

 神はモーセの取りなしを受け入れられ、民をアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた、乳と密の流れる地へ導くことを約束された。しかし神は、ご自身が民の罪を見て、彼らを滅ぼすことのないように、民と共には歩まれないことを告げられた。
 モーセは、宿営の外にしつらえた天幕で、神の使いと顔と顔を会わせて、友がその友と語るように語られた。
モーセは、神に申し上げた。「私の協力者を私に見せてください。」彼は、すでに彼のそばにいるヨショアが目に入っていなかったし、彼は神以外の協力者を求めていたのである。神が彼に民と共に歩まれないと言われたからである。しかし会見の幕屋でモーセが神と会われるとき、民は神を礼拝した。神はどれほどイスラエルの民を愛しておられたことだろう。
 モーセは神に申し上げた。「私が最後まであなたの前に恵みを得ることができるように、あなたの栄光を私に見せて下さい。そして、この民があなたのものであることを忘れないでください」と。彼は、自分がまずしっかりと神を知り、民を導いて行こうと思ったのだ。しかし神はモーセに言われた。「私の臨在があなたと共に行き、あなたに平安を与えよう。」神につながることは知識によるのではなく、それは神の臨在によるのである。それでは、神の臨在はどのようにして獲得できるのか。否、否、それは不可能である。神の臨在は、獲得することはできない。それは神の主権に関わるものなのであり、神が与えようと思われる者にのみ与えられるのである。
 神はモーセに言われた。「私は、私のすべての恵みをあなたの前に進ませよう。私は恵もうと思う者を恵み、哀れもうと思うものを哀れむ。」
 父なる神さま。私があなたの前に恵みを得ますように。

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戦いの中の平安

出エジプト記 第32章

 「私たちをエジプトから導き出した人モーセがどうなったのか分からないからです。」
 民がアロンに偶像を求めたのは、モーセの代わりとしてであった。彼らにとっては、自分たちをエジプトから導き出してくれたのは、全能の神ではなく、モーセという一人の人間に過ぎなかったのだった。今日においても、人が宗教に触れるとき、そこには何か偉大に見える人物がおり、その人が神と人の間をかえって隔ててしまうことがある。民に神を示す為には偉大な指導者が必要だが、その一方で、その人自体がかえって神を見えなくする原因になるとは、何という皮肉だろうか。
 アロンが民に、彼らの持っている金の指輪をはずして持ってくるように命じると、彼らはすぐにそれを持ってきた。民は偶像を求める。その欲求は、宝へのそれよりも強い。平安に生きることへの欲求は、何よりも強い。しかし真の「平安」とは、戦いの中にあるものなのだ。民は、この戦いを生きることをずっと避けてきた。しかし神は終始、彼らを戦いの中に導いて来られた。エジプトで奴隷であった彼らを、戦いによりそこから導き出された。ここでは、神が彼らのために戦われたのであった。神が私たちに示そうとしておられるのは、この「戦いの中の平安」であり、それゆえ私たちの神の名は、「万軍の主」なのである。
 それでは、民の罪の本質はどこにあるのか。それは、彼らが戦いにおいて彼らの内におられる神の力を信じることをせず、ただ安楽のみを求め、それが手軽に与えられるように、神そのものではなく、仲介者を求めたことにある。「神と共に戦いの人生を生きること」これが神が私たちに求めておられることなのだ。そして新約聖書が言っているように、「臆病な者」は、神が与えようとしておられる祝福から最初に脱落する者となる。なぜなら、神の与える平安は戦いの中にこそあるのだから。
 モーセには、民をこの戦いに連れ戻す必要があった。宿営の門に真に神に従おうと願う民だけを集めて、彼らに各々その兄弟、仲間、隣人を殺させた。この戦いには、兄弟も友もない。神に付くかどうかのみが問題なのだ。そしてそれは今日でも変わっていない。主イエスご自身がこう言われている。すなわち「私よりも、自分の父、母、兄弟、子供を愛する者は、私にふさわしくない。」
 父なる神さま。私たちの心にある戦いの概念を新しくしてください。

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安息日

出エジプト記 第31章

 神はモーセに会見の幕屋、契約の箱、その上の購いの座、家具類、燭台等々の仕様を啓示し、その示された通りにそれらを作るように命じた。そしてその実施にあたって、ウリの子ベツアレルを選び、彼にあらゆる知力と理解力の霊を満たして、神がモーセに啓示したすべてのものを作ることができるようにされた。
 神の言葉を語ることとそれを実現することは、別の賜物である。それは、今日においては、牧師が教会でビジョンを語り、信徒がそれを実現するための奉仕を担うのと同じである。だから私たちは、それぞれの状況に応じた賜物を神から与えていただく必要がある。
 神はまたモーセに、安息日を厳守するように命じられた。この世的には、やらなければならないことはたくさんある。しかし安息日を休むということは、神にはすべてが可能であると信じて、それらすべてを神に委ねることなのである。
 安息日は信仰の原点であり、信仰はここから始まる。それは、神の義と哀れみが輝き出る源である。主イエスが姦咽の女を訴える律法学者たちを前に、無言で地面に字を書き続けられたとき、主イエスはこの安息の中におられたのであり、彼が沈黙を破ったとき、神の哀れみが彼女に向かって流れ出、またその場にいた人々の心を神の裁きが貫いた。また、嵐の中の船で主イエスは、この安息の中に眠っておられたのであり、主が目覚められたとき、神の力が風を静め、弟子たちの心の中の波を鎮めたのであった。
 この安息は、全能の神の住まいであり、この「何もない」というものなくしてはすべてのものも存在しないのである。
 父なる神さま。あなたの安息の中に棲むことができますように。

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