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2006/05/06

メシア待望

出エジプト記 第29章

 神はモーセに、アロンとその子らを祭司とするための任職式と彼らが執り行う祭儀において使われる祭壇を清める方法について示された。それは祭儀を通して、イスラエル民族が毎日犯すであろう罪の購いのために、朝と夕にそれぞれ1頭づつの小羊を主の前に犠牲として捧げるためであった。
 そのようにして、日毎に罪を購われることによって初めて、神がイスラエル民族のただ中にご臨在されることになっていた。神のご臨在は、このような耐えざる清めの儀式により保たれていたのであり、そのために一年を通して3万頭近くの小羊が犠牲となっていたことになる。
 それにしても、なぜそのような天文学的な量の血が流される必要があったのか。「なぜに?」と問うてみても答えは得られないだろう。それは神が計られた量なのだから。私たちの罪の重さを小羊の血に換算するとそれだけに値するのだろう。しかしそれは「小羊」の血としてであり、神が定められた全焼の小羊という特別な尺度で計った場合なのであり、一般の捧げ物の場合には、さらに多くの犠牲が必要であったことだろう。
 それでは、それらの目的は何だろうか。それは、まず何よりも、当時のイスラエル民族が神と生活を共にする為に、なくてはならないものであった。彼らが荒野で生きていくためには、神の護りと祝福が不可欠であり、それに加えて神は彼らを約束の地へ導いておられたからである。
 次にそれは、主イエス・キリストの購いを予表するものである。これらの捧げ物は、それ自体不完全ではなかったが、さらに完全な捧げ物により全うされることが待望されていた。その来るべき捧げ物は、神に対する人の恐怖を取り除き、神との完全な交わりを確立するのである。それはいつ実現するのか。いつということは示されていなかったが、それはいつしか救世主の待望という形を成して行った。
 「モリヤの丘」、「過ぎ越しの小羊」、「全焼の小羊」、「祭壇」、「供えのパン」、「仮いお」、「会見の幕屋」、「マナ」、「竿の先に上げられた蛇」、これらのものが指し示すもの。それを預言者たちは、神からの啓示により書き表した。
 いま出エジプト記を読むとき、神の叫びが聞こえてくるようだ。おお、それは荒野にこだまする主イエス・キリストの声のようだ。
 父なる神さま。旧約聖書全体を通じて語りかけておられるあなたの御声に耳を傾けることができますように。

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