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2006/04/30

復活のイエス

『しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。』 マタイ28:16,17
『その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。』 マルコ16:12
『彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。』 ルカ24:30,31
『弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。』 ヨハネ21:12

 これらの聖書の箇所から、私は次のように結論する。すなわち、復活した主イエスの顔形は、生前のそれと大きくことなっており、別人のようであったと。

 なぜそのようなことにこだわるのかというと、このことは、主イエスの復活が信仰により受け取る事柄であることを要求するからだ。もちろん主イエスの復活は、事実であり、私たちが信じようと疑おうと、そのようなこととは関係なく、事実であることに変わりはない。しかし、それでもこのことにこだわるのは、主イエスといっしょに生活し、主イエスの行われた奇跡を何度もその目で見た弟子たちが、このとき見た復活の主イエスは、別人の姿であったということは、どうしてもそうでなければならなかったのだと思うからである。つまり、今天で神の右の座についておられる復活の主イエスの顔は、かつてこの地上を歩まれ、私たちの代わりに十字架に掛かられたそのイエスの顔とは違うということだ。そして、まさにこのことにより、私たちが復活の主イエスを知り信じることと、彼ら初代教会の弟子たちが復活の主イエスを知り信じることとは、まったく同じことであると言えるからだ。まさにこのことにより、私たちは初代教会の弟子たちと、信仰において同じスタートラインに立っているのである。
 もし、永遠から永遠まで生きておられる主イエスの顔を弟子たちが見たのなら、その復活の主にお会いしたのなら、彼らにとっては、主イエスの復活は、信仰の事柄とはならず、単なる事実となったことだろう。「単なる事実」それは、無味乾燥であるばかりでなく、カルト的である。その事実は、彼らをがんじがらめにし、ときには恐怖にさえ陥れかねないものとなったであろう。なぜなら、彼らは永遠から永遠まで生きて支配しておられるお方の御姿を見てしまったのだから。
 私たちは、自分たちが何をどう信じ、何によって励まされ、歩まされているのかをよくよく考える必要があるだろう。パウロも言っている。『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』 コリントⅠ 13:12 私たちが主の本当の御顔を見るのは、パウロの言っている「その時」であろう。
 そしてこのことは再び、もっと驚くべき結論の前提となる。それでは、かつてこの地上を歩まれた主イエス、そして復活された主イエスの御顔が共に、本当の主イエスの御顔ではないとするとどうなるのか。しかし、地上を歩まれた主イエスも復活の主イエスも共に決して偽者ではなく、本当の主イエスであった。それは、主イエスは、この地上において、主イエスご自身の肉体の属性をとられたのではなく(処女懐胎ということはあるにしても)、何の変哲もない人となられたということなのである。おお、それは、今日においては、主イエスは、私として、またあなたとして信仰の生涯を送りたいと欲しておられるということではないか。そのために主イエスは、天の父に願って、聖霊をこの地上に送っていただいたのである。
 この随想を読んで、多少なりとも共感してくださる方には、次の主イエスの言葉をお贈りしたい。
 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 マタイ25:40

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祭儀と礼拝

出エジプト記 第27章

 神はモーセに祭儀で使用する品々及びその場所の設計を示された。
 「祭儀」、それは神の臨在に対する人間の応答であり、礼拝の型である。祭儀は祭司が取り仕切り、祭司が主体である。実際聖所には祭司しか、また至聖所と言われる最も神に近い場所には、大祭司しか入ることができなかった。だが礼拝は民衆が主体である。民衆は、祭司が執り行う祭儀を見て、あるいは知って、自分の心の神殿で神を礼拝したのだった。
 ここで言及されているのは祭壇と聖所の前庭、そして会見の幕屋と至聖所に至る幕屋の構造であり、それは人の精神と神とのつながりを表している。
 これら一連の事柄をチョー・ヨンギ師は「幕屋の祈り」として説明している。すなわち、人が神を礼拝する為に、まず神と自分を隔てている罪が取り除かれる必要があり、それには傷のない動物を自分の替わりに犠牲として祭壇で殺すことによる購いが必要であった。それから、神の前に耐えず信仰の火を燃え続けさせるための灯火皿とオリーブ油、身体を表す備えのパンを捧げる台他。これらのもので、礼拝者の心が神の御前に整えられた上で、大祭司が傷のない小羊の血を携えて至聖所へ入り、神と会見し、民を代表して罪の購いをするのである。
 この大祭司は、キリストを表している。彼こそは、この世界からご自分の身体を聖なる犠牲として十字架という祭壇で神の御前に捧げ、神の小羊としての尊い血を携えて、神の元に至り、私たちのために完全で永遠の購いを成し遂げられたのである。
 父なる神さま。私たちの大祭司イエス・キリストの祭儀を私の心の中に行ってください。

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