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2006/04/24

信仰の荒野

出エジプト記 第24章

 神は、イスラエルに何通りかの顕現をされた。まず密雲から轟く雷鳴と閃く稲妻として。次ぎにサファイヤのような御座の上にに座される気高い人のような姿として。さらに再び密雲の中から轟き渡る声と、隠れた神秘として。
 しかし彼らには、残念ながらそれが何か有益な経験とはならなかった。ちょうど出エジプトにおいて神が彼らの前で行われた様々な奇跡が彼らにとって有益な経験とはならなかったように。
 私たちの人生においても、神について知るような様々なできごとを経験することがある。しかしそれらは往々にして、私たちの生き方を変えるようなものにはならないのである。それはなぜだろうか。
 信仰の世界は霊的な世界である。そして、霊的なことがらは、得たり失ったりできないものだ。この世界では、持っている者は、ますます与えられて豊かになるが、持っていない者は、持っているものまでとりあげられてしまうのだ。
 それはちょうど、キルケゴールが提示した死に至る病としての絶望のようなものかもしれない。つまりある人が今そのような状態にあるなら、その人は過去のすべての期間においてずっとそうであったのであり、また反対にその人が今そうでないのなら、同様にその人は、過去のすべての期間においてそうではなかったのである。つまり、彼が今信仰を持っている状態、すなわち救われた状態であるなら、彼はすでに永遠の昔から救われるべく定められていたのであり、その結果として今救われているのであり、反対にもし彼が今信仰を持っていない、すなわち救われていないのなら、彼は永遠の昔にすでにさばかれ、見捨てられていたのである。
 私たちは、この呪縛から信仰によって、約束の地の自由に導きだされる必要がある。
 ここは、予定論とアルミニズムの境界領域であり、私たちはここすなわち「荒野」に生きているのである。
 父なる神さま。信仰の荒野で、あなたに従い通すことができますように。

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