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2006/04/17

神の来臨

出エジプト記 第19章

 ついに神ご自身がシナイ山の頂上に下って来られた。そのとき、密雲と雷鳴、そしてトランペットの音が不気味に長く鳴り渡り、民はみな震えた。神はモーセを通して民を戒められた。「人でも獣でも、山に触れるものは死ななければならない。」
 神が人の前に顕現されるとき、どうしてもこのような恐ろしい姿をとらざるを得ない。それは、人が直接に神を見ることがないようにとの配慮である。というのは、人が神を見るとき、同時に自分をも見ることになるからだ。「神の前に自分を見ること」、それはなんと恐ろしいことだろうか。彼が見る自分は、もはや彼が考え描いてきた自分ではない。それは、この宇宙の創造者、天と地の創造者、万物の支配者から見た彼自身なのだ。
 神がこのような顕現をされたのは、民がモーセを神の僕と信じるためだった。神は、イスラエルに律法を与えるに際して、モーセという一人の人を仲立ちとされたのである。このことにおいてモーセは、イエス・キリストの型といえる。彼は神と人の仲介者であり、神はこの人を通して、イスラエル民族と新しい計画を結ぼうとされたのだ。神はモーセに、奇跡を行う力や神と語る権限を与えられ、彼の顔の皮が光を放つようにさえされた。神は、モーセを可能な御限り、主イエス・キリストの姿に近づけられたのだ。神と人の仲介者はただ一人、主イエス・キリストなのだから。しかし彼モーセは、実際はその姿において、なんと主イエス・キリストと異なっていたことか。その理由は、彼モーセは主イエス・キリストのように神にして人ではなく、人にして人であったからだろう。人が神のようになろうとするなら、このようにならざるを得ない。私たちは、その限界をモーセに見ることができる。そして、その完全な実現を主イエス・キリストに見ることができ、それはさらに私たち信仰者の成るべき姿なのである。
 父なる神さま。私たちが主イエス・キリストの中に自分を見いだすことができますように。

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律法の型

出エジプト記 第18章

 モーセの舅エトロがモーセを尋ねてきたとき、モーセはエトロに、神が出エジプトに際して行われたたくさんの奇跡の御業を語り伝えた。イスラエルは、神がエジプトに対して行われたこれらの裁きにより、自分たちが神から選ばれた特別な民であることを少しづつ認識していった。
 そして神は、ご自信がアブラハムとの契約に従い、エジプトから導き出されたこの特別な民との間で、新しい祝福の契約を結ぼうとしておられたのである。その契約とは、律法による契約であった。しかしイスラエルの民は、この律法という概念をまだまったく知らなかった。エジプトで長い間奴隷となっていた彼らには、正義や従順といった概念はなにもなかったのであり、社会のモラルや良い習慣のようなものも皆無だったのである。
 そこで神は、そのような状態のイスラエルに律法を与える前に、一つのステップを踏まれたのだと思う。モーセの舅エトロを使わし、モーセに助言させることにより、無秩序なイスラエルの社会に一つのモラルを創造されたのであった。それは、モーセを中心としたピラミッド式の組織体系であった。彼らはその片鱗をエジプトで見ていたことであろう。しかし今度は、彼ら自身がその運営主体となることが求められていた。そして、荒野における徹底した試練の後、彼らに律法を授けられるのである。
 父なる神さま。鷲が翼の下に雛をかくまうような、イスラエルへのあなたの愛をほめたたえます。

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