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2006/04/05

モーセのように

出エジプト記 第14章

 ここには、驚くべき、旧くて新しい真理が啓示されている。それは、この世界に放置され、私たちに向かって権力を行使し、計り知れない驚異を与えているように見えるところの悪の勢力は、実は神によりそれが聖徒の前に打ち砕かれることにより、神の栄光がこの世界に現されるために置かれているということである。しかも、彼らは天地創造以来の最初の反逆のときに、実質的にはすでに裁かれており、彼らの滅びがそのときまで延期されたのは、ただ神の哀れみによるのだ。
 この聖書的な考えに立つものは、自分をモーセのような神の裁きの執行者として認識するだろう。実に聖書には、あらゆるところに人間という複雑系の諸相とその堕落及びそこから解放の歴史が記されているのであり、出エジプト記を読む者にとっては、エジプト、パロやその家来、イスラエル民族、そしてモーセその人についても、それを読んでいるまさにその人を表してい得るのである。
 そこで私たちは、主イエスを信じる信仰により、神の力強い右手としてのモーセその人となり、神から与えられた自分の人生を、絶えず神の奇跡に彩られた驚きと感動の中に全うすることが備えられているのである。
 父なる神さま。あなたの僕モーセのように、あなたの前に力強く歩めるようにお助けください。

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奇跡の色合い

出エジプト記 第13章

 神は、イスラエルをエジプトから救い出されるために数多くの奇跡を行われた。そして連れ出された後には、今度は、雲の柱によって彼らを導かれた。
 イスラエルと神を結びつけていたのは、終始「奇跡」であった。
 「奇跡」とは、どのようなものだろうか。
 まず、それは神がご自身で作られた自然法則に自ら逆らうことと言えるだろう。それでは、何故にそのようなことを行われるのか。そこには、それ相応の理由があるのである。すなわち神は、それほどにイスラエルを愛しておられるのであり、それゆえに自然法則をさえ破られるのである。
 次に「奇跡」は、神の臨在の現れである。そこに神が実際におられ、介入されておられるのであり、その力強い効果は、神の威光を示すものである。
 また「奇跡」は、神のご意志の実現である。それを見たときに、神が本当にどのように考えておられるのかが分かるのである。
 そのような意味で、神はイスラエルの前で奇跡を行われたのであり、それはどうしても必要なものであった。
 しかし、そのようなことを通じて神が求めておられたのは、奇跡自体やそれによる圧制ではなく、イスラエルとの人格的な交わりだったのだ。ここに大きな限界があり、神はもちろん最善の方法でアプローチされたのだったが、イスラエルはこの永遠の愛をを受け取ることができなかったのである。
 彼らがそれを受け取るには、まずもって何か根本的なことが解決される必要があった。神と人の間の断絶(これが奇跡という色合いをとるのだが)が取り去られる必要がある。神の一人子キリストが必要なのだ。
 父なる神さま。愛する御子を十字架にさえ架けられたあなたの愛を賛美します。

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