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2006/03/24

過ぎ越しの祭り

出エジプト記 第12章

 出エジプトを目前にして、最後の恐ろしい災いの前に、神はイスラエルに一つの祭りを創造された。
 「私は有って有るもの」と言われる全能の神ご自身が一つの聖なる民族を創造されるのである。その民族は、子孫に全能の神が実際にしてくださった御業のことを語り伝えるのだ。彼らの神は、生きて働かれる神なのだ。そして神ご自身が彼らの斯業となられ、財産となられ、故郷、そして永遠の都となられるのだ。
 その新しい祭りにはすでに、遙かな未来に来るべきメシアの予表が見られる。神はまさに、永遠の愛をもってイスラエルの購いを計画され、その壮大な物語の演出と初演を自ら行なわれたのであった。
 イスラエルは、真夜中にエジプトから出ていくことを強いられた。それこそ持つものも持たないくらいにして。エジプト人はそれまでは、自分たちの奴隷である彼らを決して自由の身にすることを欲しなかったが、今は突然に、彼らを強いて送り出すのである。
神がすべての状況を完全に変えられてしまったのだ。
 かく人は、この世への隷属状態から救出されるのであり、神はあなたをそのようにして罪の生活から救出されたのである。
 父なる神さま、救済史の絵巻の舞台裏までを見せてください。

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イスラエルにとっての災害

出エジプト記 第11章

 神は、エジプトに対して最後の恐ろしい徴を用意しておられた。それを行われるころには、イスラエル人の心は一つになってきていた。というのは、様々な災害が引き続き起こり、しかもそれが徐々に激化するものだから、エジプト人等は、イスラエル人の労役管理どころではなくなってしまったのだった。そこでイスラエル人の心には、出エジプトへの希望と一つの民族意識としてのが芽生え始めて来ていた。そこで、神がエジプトに対して送られた一連の災害は、ただエジプト人を裁くためだけではなく、イスラエル人を出エジプトに対して準備させるためのものであったことが分かる。故郷を失い、民族としてのアイデンティティを失っていた彼らに神は、これらの一連の災害により、ご自身がアブラハム以来、彼らを護り導いてきた神であることを思い起こさせられたのである。
 父なる神さま 救済史の深い意味を教えてください。

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実験的な自己

出エジプト記 第10章

 神は再びエジプトに対して、奇跡を行われた。イナゴの大群と暗闇である。これらの災害においても、神はエジプト人とイスラエル人の間に区別を設けられた。イスラエル人の畑はイナゴの被害を受けず、また暗闇が襲うことなく、いつも光があった。暗闇は混沌であり、神が光を作られたときに退いたが、それは無ではなく、人間存在にとって大いなる驚異であり、このときエジプト人に牙を剥いて襲いかかったのだった。すべてのエジプト人はこの暗闇を前にして、自分の座っていた場所から立ち上がることさえできなかった。
 ここに至り、ファラオ自身の人間としての存在性が根底から揺すられることになった。そこで彼は譲歩して家畜たちを置いて神に犠牲を捧げに行くことを認めた。もしモーセたちがこれを受け入れたらこの一件は落着し、彼らはファラオと和解できたかも知れない。しかしモーセがファラオの申し出を断ったので、ファラオは再び心を頑なにしてしまった。
 ファラオにとって、妥協の範囲はあまり問題ではなかった。むしろ彼の意見が採用されることこそが問題であったのだ。だから彼は、体制不利な状況下で最大の譲歩をしてきたのだ。それは、ファラオの存在性を掛けた、自己認識の必死の試みであった。
 しかしモーセたちがそれを断った今となっては、もう彼の心を軟化させるいかなるものも存在し得ない。彼の強情は、最大限に強められてしまった。ああしかし、このある意味で強力な自己は、そのゆえに神の哀れみをもそれだけ強く引き寄せうるものなのだが、それは哀れみを受け取るにはあまりにも幣束したものになり果ててしまった。キルケゴールが言うように、彼の一見自由な自己は、どのようなものにも縛られないことを欲するのだが、それはまた、いかなる瞬間にも反乱が合法的であるような実験的自己なのである。
 天の神さま、あなたの支配の中に本当の自由があることを教えてください。

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神の指

出エジプト記 第9章

 神は次に、エジプト人の家畜を疫病で打たれたので、エジプト人のすべての家畜は死んでしまった。しかし神は、エジプト人とイスラエル人の間に区別を設けられ、イスラエル人の家畜は一匹も死ななかった。また神は、ひどい腫れ物ですべてのエジプト人を打たれた。エジプト人の魔術師たちは、腫れ物のゆえにファラオの前に出ることができなくなった。彼らは以前まで、モーセたちが行う奇跡を自分たちの魔術と同じだと主張してきていたが、モーセたちがブヨを出す奇跡を行ったときに、この神のみが行うことのできる創造的な奇跡の前に打ちひしがれ、「これは神の指です」と告白していたのだった。そして、この腫れ物の奇跡に至り、圧倒的に打ち破られてしまった。
 しかし、魔術師への信頼を失ったファラオは、それでもモーセ等が提示するイスラエルの神を認めることをしなかった。ファラオにとって元々、魔術師は驚異的な存在ではなかった。彼らはファラオに聞き従う召使いに過ぎなかったのだ。
 しかし、モーセ等が提示する神は、ファラオの権威を越えていた。それは、全宇宙を創造した力であり、無から有を生み出す力を持った独立した存在であった。
 しかしそれでもファラオは、心を頑なにし続けた。いったい何が彼の心を頑なにさせたのだろうか。聖書は、「神が彼の心を頑なにした」と言っているが、それは「神ゆえに彼の心は頑なになった」という意味である。ファラオの心は正に虚無であり、どのようなものにも動かされることはない。それは、目の前に行われる奇跡に、大きく動揺するが、それによって義の知識を得、正しい道を歩き始めるということは起こり得ないのだ。彼の心には、確固とした何物も存在していないから、正しいものに聞き従うということが不可能にされているのだ。彼の心が頑なさから解放されるためには、何かがなされなければならない。彼の心に、正しさに呼応できる土台が創造されなければならない。彼の心に義の霊が宿る必要がある。そうでないと彼の心は正しさに呼応できないのだ。
 だから神は、主イエス・キリストにより、私たちに聖霊をくださったのであり、この聖霊によってのみ私たちは正しいことに呼応することができるのだ。
 父なる神さま。聖霊を与えて下さり、ありがとうございます。

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