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2006/03/15

二つの奇跡

出エジプト記 第7章

 神は、エジプトの王パロに対して、立て続けに2つの奇跡を行われた。杖がへびになる奇跡と、川の水が血に変わる奇跡である。これらは、神がモーセに予め伝えておかれたものであった。そしてそれらは、パロがイスラエル人に負わせた重い労働に対抗するものだった。しかし、パロの心は頑なになり、イスラエル人を自由の身にはしなかった。
 この奇跡は、イスラエル人にとっても好ましいものではなかっただろう。しかし彼らは、このことではモーセとアロンに文句を言わなかった。神が彼らのために戦っておられることが分かったからである。
 戦いには犠牲が伴う。それは、新しいものが創造されるときの生みの苦しみの一部である。新しい創造とは、何だろうか。それは、神を持たず故郷を持たず、民族意識もないイスラエル人を神の聖なる民へと創造することである。これが、無から有を生み出された我らの神にふさわしいことである。
 父なる神さま。あなたの創造の力と大いなるご計画について教えてください。

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霊的な戦い

出エジプト記 第6章

 私たちが神の民として歩むということは、ただ神の民にふさわしく良い生活をするということだけではない。それは、実は戦いを意味する。悪の勢力との戦いである。この戦いは、常に行われているのだが、世の人は、目の前をかすめる鉄砲玉にも普段は気づくことはごくまれである。しかしこの戦いは、熾烈をきわめるものであり、神の戦列に入った者は、この血みどろの戦いに突然にさらされることになる。
 モーセとアロン、そしてイスラエルの民は、このときこの戦いのまっただ中に突然に放り込まれた状態であった。そして悪の力が今まさに鋭い刃を剥いて迫って来たのであった。
 モーセは、主に向かって文句を言った。「いったいなぜあなたは、私をエジプトへ遣わしたのですか」と。彼らは、自分が文句を言っている相手がだれであるかを知っていなかった。というのは、そのお方は、悪の勢力を一瞬にして葬り去ることのできるお方なのだから。
 私たちは、自分の培ってきた人生観を一新する必要がある。神は何故に、悪を野放しにしておられるのか。それは一重に、私たちへの愛であり、悪の力の大きさを示すものでは断じてなく、私たちに万物を相続させるためなのである。
 私は確信する。万物を相続するためには、私たちはそれを奪い取る必要があると。そして、奪い取る為には、奪い取る相手がいなくてはならないと。それが、旧約聖書に一貫して記されていることなのである。悪の力は、ただその目的のために存続を赦されているのであり、その目的が終わると、火の池に投げ込まれるのである。
 父なる神さま。霊的な奥義を私たち神の子たちに啓示してください。

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