« 2006年3月9日 | トップページ | 2006年3月15日 »

2006/03/11

大きな疑問

出エジプト記 第5章

 モーセとアロンは、エジプトの王ファラオのところへ行き、「我々に荒野を3日の道のりを行かせ、神に犠牲を捧げさせてほしい」と言った。
 これは、神が計画された最善の、もっとも犠牲の少ないエジプト脱出方法だったのだろう。3日の道のりを行って帰る為には、民は日用品や家畜、つまり彼らの財産のすべてを携えて行かなければならない。そして、犠牲を捧げ終わったら、神がその場に力強く臨み、その場にいたエジプト人を打ち、イスラエル人はそのまま約束の地を目指して逃走する。これにより、犠牲はエジプトの軍隊だけとなる。
 しかし現実は、そのようにはならなかった。エジプトの王ファラオは、モーセとアロンの申し入れを執拗に拒否し、それにより、罪のないエジプトのたくさんの平民までが天災の犠牲となった。
 ファラオの心は、どうしてそのように頑なになってしまったのだろうか。その一つの理由は、彼らが信じていた神は、人間に都合の良いように振る舞ってくれる神であったため、イスラエル人も自分の都合を言っているのだろうと思い、取り合わないばかりか、反対に彼らの労働の重荷を増し加えたのだろう。
 しかしもう一つのさらに大きな理由がある。それは、ファラオが心を頑なにすることさえも神のご計画だったということである。ということは、多くのエジプト人が犠牲になることも神のご計画であったということになる。神は、これら二つのご計画を創造され、それをイスラエルとエジプト人の前におかれた。そして、「私は、ファラオの心を頑なにするから、彼はあなた方を行かせはしないだろう」と言われたのである。
 ファラオが心を頑なにせずに、民を行かせる可能性は、いったいあったのだろうか。聖書からは、その可能性はなかったように見える。そして、神はただいたずらにエジプト人を苦しめておられるように見える。
 しかし、どのようにして、そしてなに故にファラオの心は頑なになったのかは、注意して聖書を読む必要があるだろう。神がいたずらにご自身が愛をもって創造された人を殺されることはないだろうから。この大きな疑問に、出エジプト記は、きっと答えてくれているに違いない。
 父なる神さま。この答えを教えてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛と義

出エジプト記 第4章

 神はモーセに、エジプトで奴隷となっているイスラエル人の救済について指令を出すと共に、ご自身が共におられることを数々の奇跡により実証することを示された。しかしモーセは、それらの奇跡を目の当たりにしても後込みをしてしまって決断ができなかった。
 神は、モーセに対して怒りを燃やされた。彼が神の守りと導きを100%信じず、神の命令に服従しなかったからである。それにしても、神がご計画の実現を人に託そうとするときに、このようにその人を説得されるのは、いかなる理由によるのだろうか。それは、神が人に自由を与えられたからであり、神の支配とは、単なる権力による強制ではないということであろう。
 しかし、神は義の神である故に、神の命令に背く者を裁かずにはおかない。神は、モーセを殺そうとなさるのである。神においては、愛と裁きは矛盾するものではない。神は愛する者を殺すことがお出来になる。しかも何の矛盾もなく。それゆえ、イエス・キリストは十字架に掛けられたのである。そして、その裁きにより打ち立てられた義により、信じる者の罪が赦されたのである。
 父なる神さま。主の十字架の意味を深く教えてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アイデンティティ

出エジプト記 第3章

 ミデアンの祭司エテロの元で羊を飼っていたモーセは、荒野にいたとき、燃える芝の中から呼びかける神の声を聞いた。その声はこう言った。「私はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」
 神はモーセに、得体の知れない超自然的な神ではなく「先祖の神」としてアプローチされた。それは、護りと祝福を与える神である。しかしこのときは、ちょっと様子が違っていた。神はモーセを、彼が殺害を逃れて出てきた元のエジプトへ遣わされようとしていたのだから。「先祖の神」というモチーフは、今のモーセにとっては、あまり意味をもたないものであった。そこで神は、どのようにしてイスラエルの民をエジプトの王パロの元から導き出すかのビジョンを彼に語った。それは、「全能の神」としてのビジョンであった。しかしモーセは、自分がエジプトで見たイスラエルの民の虐げられた生活を思い出した。彼らには、故郷も先祖もなく、何の希望もない。民族としてのアイデンティティすらない。そのような彼らを全能の神のビジョンだけでは、とても説得することはできないと。
 そのとき神は、モーセにご自身の新しい名を告げられた。「私は、有って有るもの」と。「私は有る」と言われるお方があなたがたをエジプトの王パロの手から、旧くて新しい故郷へ向けて導き出されるのだと。
 故郷を忘れ、虐げられ、民族としてのアイデンティティを喪失した彼らのアイデンティティとなると、いやすべてのすべてとなると全能の神は言われるのである。
 そしてそれは、神が今日でも、私たち一人一人に、イエス・キリストを通して語っておられることなのである。
 父なる神さま。聖書を通して、あなたというお方を知ることができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月9日 | トップページ | 2006年3月15日 »