« 2006年3月6日 | トップページ | 2006年3月9日 »

2006/03/08

新しい契約

出エジプト記 第1章

 神がアブラハムと結んだ契約は、文字通りに成就した。イスラエルの民は、海の砂、空の星のように殖えひろがり、繁栄は常に彼らと共にあった。
 エジプトの王パロは、イスラエルの民に驚異を抱き、彼らを制圧しようと重労働を課した。しかし、彼らはますます殖えひろがった。神の約束は、そのようなものだ。それは、環境とは直接関係なく成就する。しかし、何故にイスラエルの民は、このエジプトで奴隷となろうとするのか。というのは、それは単なる成り行きではなく、神のご計画でもあるのだから。
 その原因の一つは、イサク、またヤコブの罪だと思われる。そしてそれはまたアブラハムの罪であり、それらの大元はアダムの罪に端を発するものである。彼らは一様に、子供の教育には無頓着だった。家族で神を礼拝することもなく、自分の信じている神を子孫に伝えるということを考えてもいなかった。そのような考えは、たぶん人間の生来の性質からは決して出てこないものなのだろう。そこで、神はアブラハムと契約を結ぶにあたって、そのようなアダム以来の人間が生来持っている罪の克服を意図されはしなかった。神はそれを、神の人モーセを通してイスラエルの民全体と新しい契約を結ぶことにより達成しようとされたのである。
 「旧約聖書」、それはよく「旧い契約」と一言で言われるが、そのような単純なものでは決してない。神は旧約の時代に、人と複数の契約を結ぼうとされた。創世記においては、アダムと、ノアと、アブラハムと、そしてこの出エジプト記においては、神の人モーセを通して、一つの民族全体と契約を結ぼうとされたのであった。
 神はかつて、創世記において、ノアを通して人類全体と契約を結ばれた。しかしそれは、神からの一方的なものであった。しかしアブラハムとは、神はるかに対等な契約を結ばれた。神は、アブラハムに完全な従順と信仰を要求されたのだ。アブラハムがイサクを捧げたのは、神が一人子を捧げられたのに等しい犠牲と見られる。その意味で、対等の契約と言えるのである。
 しかし、神はこの出エジプト記において、さらに新しい契約を結ぼうとされる。それは、神と民族との対等の契約なのである。この対等という意味は、もちろん文字通りの対等ではあり得ない。創造者と被造物の間は対等な関係ではあり得ないから。しかしアブラハムの場合と共にここであえて対等という言葉を使うのは、被造物がおのが命を差し出すことにより、創造者から受けたすべて、在らん限りを捧げることにおいて、神の創造の目的を完遂することを意図しているのである。
 神は、被造物の徹底した自己犠牲の愛を受け入れてくださる。それをご自信と被造物との対等の契約の担保として。そしてこれこそが、出エジプト記をこれから読もうとする者の希望と期待の拠り所なのである。
 父なる神様。出エジプト記に頌えられている大いなる契約の意味を教えてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月6日 | トップページ | 2006年3月9日 »